一方的に約束をして、一方的に貸しを残して、彼女は死んだ。


























空へ




























彼女と申公豹が初めて出会ったのは、申公豹が太上老君に弟子入りして数年後のことだった。明永は、いつもどこかぼんやりしている人だと申公豹はずっと思っていた。明永にはたった一人の肉親である妹が人間界にいると聞いていたので、その妹のことが気がかりなのだろうか、とも同時に考えていた。


申公豹と明永は、それほど仲がいいというわけではなかったものの、一応同期ということもあり、崑崙山の中ではお互いに親しい方だった。年は明永の方が上だったが、崑崙山に来たのは申公豹の方が先で、力や才能も申公豹の方が圧倒的に上だった。しかしその力ゆえか、申公豹はなかなか力に見合った宝貝を手にすることが出来なかった。


「他の人たちより格段に強い力を持つというのも、結構困りものなんですね」


あるとき明永は申公豹に言った。


「見合うだけの宝貝を持たせたら、何をするか分からないと思われているのでしょう」


申公豹は、なんでもないことのように言った。崑崙山内では、有り余るほどの力を持つ申公豹がその力に値するだけの宝貝をもらえないのは、崑崙山上層部が申公豹を恐れているからだという噂が流れていた。勿論その噂は明永も、そして当人である申公豹の耳にも入っていた。真意は分からない。明永も敢えて、自分の師匠である原始天尊に聞こうとしなかった。申公豹は真意がどうであろうが構わないと言ったからだった。


申公豹はまだ道士であるにも関わらず、その力は三大仙人に匹敵、もしくはそれを上回るくらいである。崑崙山上層部が恐れているかもしれないという噂も、あながち外れてないかもなと明永は思った。力に見合う宝貝を与えた瞬間、仙人界を思うままにする可能性がある、と。それでも、そんなものは杞憂に終わるだろう、とも明永は思った。


「申公豹は、そんなことすら下らないと思ってそうです」


申公豹の性格を考えてそう思った。申公豹は意表をつかれたように驚いた顔をして、おかしそうに笑っていた。


明永の妹が、人間界で若くして死んでしまうのはそれから数年後のことである。申公豹から見て、明永はそれまで以上にぼんやりしている時間が増えたようだった。話しかけてもどこか上の空だったように思えた。そしてぼんやり過ごすまま、明永は胸の病を患うことになる。元々それほど丈夫でなかった明永の体は、気付いたときには病に蝕まれていた。その当時の仙人界での医療では、明永の病を治す手だてはなかった。不死ではなくなった彼女は、少し寂しそうに笑っていた。


「こんなことになって、よく笑っていられますね」


申公豹は呆れたように明永に言った。不老不死であるはずの仙人が、病にかかって死んでしまうなんて。妹の元に行けるから笑っているとか、そういうことだろうかと申公豹は思った。こんなにも、生に執着のない人だったのだろうか。少し、嫌気が差した。明永は眉をハの字にして悲しそうに、それでもやはり微笑んでいた。


「申公豹」


病気が発覚して安静にしているように言い付かっているはずの明永が、部屋を抜け出してきたのには、さすがの申公豹も驚いた。


「…なにをしているのですか、こんなところで」


青白い顔のまま、明永は笑う。そして唐突に、申公豹に宝貝を差し出した。見たことのない宝貝だった。彼女が自分で作っているという宝貝が出来上がったのだろうか。しかし、作っている途中を見たがこんなものではなかったはずだと申公豹は思った。


「仙人界で最強だと言われている、雷公鞭です」


申公豹は目を大きく開いた。明永は続ける。


「申公豹の力に見合う宝貝は、これくらいでしょう?それにこの雷公鞭も、使える仙道がいないから使われていません。だから申公豹が使えばいいんじゃないかと思って」


「…勝手に持ってきたのですか?」


「原始さまの部屋に飾ってあったんです。私、原始さまから、いま作ってる自分用の宝貝の参考に、原始さまの部屋にある宝貝をどれでも持っていっていいって言われてるから」


それでも、その宝貝を勝手に他人に渡すのは駄目なのではないか。参考に持っていってもいいかもしれないが、それをイコール使っていいというわけではない。申公豹は思わず溜息をついた。


「原始さまには私から言っておきます。雷公鞭だって、ずっと使われずに飾られたままより、使われた方が良いんじゃないかしら」


しかし、申公豹は受け取ろうとしなかった。明永を見つめながら黙っている。明永は再び口を開いた。


「別に、あなたに恩を売ろうだとかそういうつもりはありません。ただ、あなたにこの宝貝を持ってもらって、自分の思うときに、思うように使ってほしいと思っているだけです」


申公豹には、明永の真意は見えなかった。


「けど、敢えて言うならこれは貸しですね。力に見合うだけの宝貝を持っていないあなたに宝貝を渡す私は、あなたに貸しを作ることになります」


「貸し…ですか」


明永は頷く。


「あなたはいつかその貸しを返してくれればいい。それだけです」


病気で死んでしまうのに、「いつか」だなんて悠長なことを明永は言った。自分の病気のことを、ちゃんと自覚しているのだろうか、と申公豹は思った。しかし明永は、その「いつか」が来ることにとても自信を持っているように見える。目は真っ直ぐに申公豹を見て、逸らすことはない。


「…分かりました」


申公豹はもう一度大きな溜息をつき、宝貝を受け取った。明永は微笑む。


「それと、この貸しには約束付きです」


申公豹は眉根を寄せて明永を見る。


「この宝貝を、「いつか」、自分のためだけでなく誰かのためにも使って下さい。来るはずの「いつか」に、使って下さい。もちろんそのときは自分の考えに反しているから使うという名目を置いてもいいです。結果的に、誰かのためになりますから」


申公豹は意味が分からず、表情をそのままに明永を見つめ返した。


「…どういう意味ですか?」


「いつか、分かりますよ」


明永は、笑みを崩さずに言った。意味深な笑みの向こうで、この仙女は一体何を思っているのだろうか。申公豹もつられたのか、苦笑に似た笑みを浮かべる。


「…お願いしましたよ、許由」


驚いて、申公豹の顔から笑みが消えた。明永はまだ笑っている。


「…どれくらいぶりでしょうか、その名を呼ばれたのは」


小さく息をついて言った。


「あなたの名前は…、でしたね」


明永は、ふふと笑った。自分の名前だったはずなのに、なぜだかこんなにも遠い言葉になってしまったのを、少し寂しく思う。


「私も、久しぶりに呼ばれました。…持つべきものは友達ですね」


そう言って、明永は嬉しそうに笑った。


申公豹が明永と会って話したのは、その日が最後だった。それから数日後、明永は亡くなったと聞いた。


明永があの日言った言葉の意味は、それから何年も何年も経ったずっと後になって、申公豹はようやく分かる。明永が死んだ後、申公豹は黒点虎を連れて崑崙山から離れた。黒点虎と雷公鞭を持った申公豹を止める者はいなかったし、師匠である太上老君は「好きにしていいんじゃない」と言っただけだった。最初から最後までやる気の見えない師匠だった。


「…私は、。崑崙山の…」


朝歌の禁城で、宝貝とその名を持った道士に会って、全てに納得がいった気がした。彼女の、最後の笑顔を思い出した。






「申公豹ー」


ようやく目的の人物を見つけ、は声を張って呼んだ。


「…なんですか」


「うわ、呼んだだけなのにすごく迷惑そう」


表情を歪めて黒点虎の上から見下ろしてきた申公豹に、は呟いた。黒点虎は、申公豹を乗せたままのすぐそばに降りてくる。


「私、かなりの時間をかけて申公豹のこと探し当てたんだからねー。申公豹に伝言あるんだよ」


「伝言?」


はこっくりと頷いた。


「うん、明永さんから」


申公豹はを見る。女カとの戦いも終わり、今のは明永からの力を授かっていた。


「約束を守ってくれてありがとうって」


からの言葉に、申公豹は笑みを作る。今の今まで不機嫌そうな表情だった申公豹が急に笑ったために、は思いきり不審なものを見るような顔をした。


「…そういえば申公豹って、明永さんと知り合いだったの?」


「ええ、同期でした」


「……え!!」


はまじまじと申公豹を見つめた。見つめたところでどうなるわけでもないが、なんとなくそうした。申公豹はまだ笑みを浮かべている。


「…彼女らしいですね」


申公豹が懐かしむような顔をしたのをは見た。同期というのは、自分と太公望と普賢のようなものだろう。しかしあの明永仙姑とこの申公豹が同期というのは、全く予想していなかった。選択肢にすら入っていなかった。申公豹にも太上老君という師匠がいるのだから同期だっていてもおかしくないのだが、どうにも想像できない。


「申公豹は…私と明永さんが、なんか関係あるかもって最初から思ってたの?」


は一度も申公豹に、自分と明永仙姑との関係は説明していない。しかし、申公豹は明永の力をがもらったことを知っていた。明永仙姑が死んだあとどうなっていたのかも知っていたのだろうか。


「彼女が亡くなる直前に作り上げたという宝貝を持ち、尚かつ彼女の人間界での名前と同じものを持った道士が現れれば、なんとなく察しは付くでしょう。そこまでの偶然があるはずありません。そしてその道士が携わっているのは、仙道などの魂魄体を扱う封神計画です」


明永が作った、使い手を選ぶという宝貝を操り、また同じ名を持つ道士がいれば、知っている人は誰だって不思議に思うだろう。そして計画の内容は、魂魄体を封印するもの。ただの偶然で片付けるには出来すぎている状況を説明する材料はあった。明永仙姑の魂魄が、なんらかの方法によって封印され、今この「」の体の中に入っているのではないか。


「私は「生まれ変わり」などという根拠のないものは信じていないのです。それに封神台というものが存在しているのなら、生まれ変わりという不確実なものより、普通は魂魄体として生き残ったのではという方を先に考えるでしょう」


「…なるほど」


女カとの戦いの中で、申公豹は初めて雷公鞭をフルに活用した。彼女から言われていたことを、意識はせずとも申公豹はやっていたのだ。自分のためではあるけれど、結果的に誰かの、みんなのために女カと戦った。


申公豹に一方的に貸しを作り、一方的に約束まで取り付けて死んでいった彼女は、の中からも消えていったという。


「そういえば、申公豹が言ってた「借り」って、もしかして明永さんとの何かだったの?その約束っていうのと、なんか関係してるとか?」


「…いつか、気が向いたときにでも話してあげましょう」


から目を離した申公豹に、はむっと顔をしかめる。


「いつかっていつよ。というか申公豹、いっつも人間界にいるからほとんど会わないじゃない」


申公豹は笑った。けれどそれ以上は何も言わず、も諦めたように溜息をついた。


明永仙姑とは全く似ていなかった。明永はいつも何かにつけて笑っているだけだったが、はその場その場で感情をそのまま表す。容姿も性格も全く違うし、共通点を探しだすことが難しいかもしれない。はどちらかというと、明永の妹に似ているのではないかと申公豹は思った。時折、明永から妹の話は聞いたことがあった。そのときだけ、明永はいつも以上の笑顔になって嬉しそうに話していたのを覚えている。


「私、申公豹に会えて良かったと思っています。あなたと友人になれて良かった」


彼女は最後にそう言った。あのときすでに彼女の心は、妹のいた人間界にあったのだろう。だから、人間界にいたときの名を呼んだのだ。それと同時に雷公鞭を渡したことも、人間界にも大きく関係があることだと、暗示していたのかもしれない。


「さようなら、申公豹」


風に紛れて、明永の声が聞こえたような気がした。


































      


2006,09,23