途切れた意識が、真っ白な部屋の中で再び舞い戻ってきたとき、それが始まりだった。 温かいここは、沢山の光に溢れて、沢山の優しさに溢れて、やがて空のように輝くのだ。 この光を失わないように、この温かさを失わないように、ずっと。 天つ風の記憶の中で その少女は、どうやら周族の村の出身であるようで、都から来ていた人狩りに両親を殺されたそうだった。その両親は、一人娘だった少女だけは守るために囮となり、最後まで抵抗したために死んでしまったらしい。とは言っても、結局は都で王の死後の付き人として死んでいただろうから、両親は寿命が少し縮んだだけであり、残酷なことを言うようだが、一人娘を生き残らせるためには最善のことをしたと言えよう。結果として、一人娘である少女は仙人界に引き取られることとなった。仙人骨があったのだ。 少女の名は、と言った。不思議な偶然もあるものだ、と彼女は思った。とは別に存在していたこの彼女の名は、明永仙姑と言った。名前といっても、仙人界で付けられた名であり、人間界にいたころはまた別に、両親から付けられた名があった。 明永は16のときに、原始天尊から仙人界に来るよう呼ばれた。彼女には仙人骨があった。しかし明永は、すぐに仙人界に行くことは拒んだ。彼女には11歳年の離れた妹が一人いた。両親は、妹が3つのときに流行病で死んでしまっていた。とても悲しかったし寂しかったが、妹のことは自分がしっかりと見ていかねばと思っていた。だから、まだ幼い妹を一人残して仙人界に行くことなど出来なかった。せめて、妹が良縁の家へ嫁いでいくまで待ってほしいと、明永は原始天尊に頼んだ。原始天尊もそれならば致し方ないと、了承してくれた。 「ごめんなさい姉さん、私のせいで姉さんは」 年を重ねた妹の口癖はこれだった。しかし明永は妹のことを負担に思ったことなど一度もないし、妹のことも大好きだった。妹にそう伝えると、いつも妹は嬉しそうに、けれどどこか悲しそうに笑った。そして最後に必ず「姉さん本当にありがとう」と言うのだ。 そんな妹も、16になった年に縁談が決まり、嫁ぐことになる。明永は妹と手を取り合って喜んだ。おめでとう、と何度も言った。嫁ぎ先はなかなか裕福な家庭で、明永も安心だった。ただ一つ心配なことと言えば、妹は身体が弱いということだった。明永自身、それほど丈夫な方ではなかったが、妹は明永以上に体が弱かった。救いは、嫁ぎ先の人間全てが、妹が体が弱いということも承知の上で受け入れてくれたことだった。 「おぬしの、仙人界での名は明永仙姑じゃ」 崑崙山に登った彼女はまず仙人界での名前を付けられた。27という年で仙人界にはいるというのは、なかなか遅い方だということだが、才能があったのかどんどん力を付けていった明永にとって、年齢はさほど問題にはならなかった。 明永には、同じくらいの時期に仙道となった同期がいた。彼の名は申公豹と言い、明永よりも仙人界に入った時期は早かったが、年齢は明永より少しだけ下だった。しかし、申公豹は明永とは比べものにならないくらい強い力を持っていた。また、持つ力が大きすぎるために畏怖の対象とされ、ずっと宝貝をもらうことが出来ないのではないかという噂も、明永は耳にした。万一申公豹に、その力に見合う強い宝貝を与えて、彼がその力でもって仙人界を自分の意のままにしては困ると、誰かが考えているらしい。しかし明永は、申公豹がそんなことをするとは思えなかった。 「申公豹は、そんなことすら下らないと思ってそうです」 ある日、明永は申公豹に言ってみた。すると、申公豹は思いがけず笑っていた。 「あなたは本当に、思ったことをそのまま直接言う人ですね」 そんな明永自身、現時点で崑崙山にある宝貝とはどうにも相性が合わないらしく、自分の宝貝というものは持っていなかった。いざとなれば自分で作ればいいと思った。 仙人界に来て数年経ったある日、人間界にいる妹が危篤だと、原始天尊が伝えてくれた。妹はまだ30になったばかりだった。風邪をこじらせ、肺の病を併発してしまったのだという。すぐに人間界の妹の家に向かった明永を、妹の夫となった人が迎えてくれた。とても久しぶりに見た姉の姿に、妹は嬉しそうに笑った。昔とちっとも変わらない笑顔で。 「姉さん、私、幸せでした。姉さんの妹で良かった。私が素敵な家族を作ることが出来たのは、姉さんのお陰だし、仙人となった姉さんは、私の誇りです」 妹は、夫に手を握られたまま微笑んでいた。夫の横には子どもが三人並んでいる。妹の姑に当たる人は、必死で泣くまいと耐える表情で、妹の顔を見下ろしていた。ああ、妹は大切な人たちに巡り会うことが出来たのだなと、明永は思った。その証拠に、妹はとても幸せそうに微笑んでいる。 「…安心して。あなたの大切な人たちは、私がずっと見守っていくから」 明永の言葉に、妹は嬉しそうに笑う。そして言った。 「姉さん、これからも素敵な、立派な仙女として、人々の役に立つ素敵な姉さんとして、生きてね」 この妹の最後の言葉は、明永の心に深く刻まれることとなる。明永はこの言葉を、いつまでも大事に取っておいた。妹が言った言葉の中身を果たすことが、自分の役目だと思った。大丈夫、姉さんはあなたのことも忘れないし、いつまでも見守っていくから。 しかし明永は、この後数百年以上という時間はあったものの、病にかかり死んでしまう。王奕という始祖の一人が、女カを倒すための「封神計画」を提案しに崑崙山に来て、僅か数年後のことだった。病に蝕まれ、自分が「不死」の体ではなくなってしまったことを知った明永は、妹の言葉を全うできないことを悔やんだ。「封神計画」という、大きな計画の前で、自分は何も出来ないまま死んでしまうのだろうか。妹が残していった家族の子孫が生きているこの世界で、その彼らの役に立つことが出来ないのか。最も望んだことだったはずなのに。 そんなときに原始天尊から、魂魄として後世に残らないかという案を持ちかけられる。崑崙山の教主である原始天尊の弟子である明永にも、申公豹ほどとは言わなかったが力があった。原始天尊は、封神計画のために明永の力は必要であると考えた。一人でも多く、強い力を持つ味方がいてくれた方が良いということだった。 そして、明永は魂魄と自分で死ぬ前に作った宝貝だけ残し、事実上崑崙山で死んだということになった。宝貝には、いつかのために、「自分」の入った誰かにしか使えないよう細工も施して。 病で死んだ崑崙の仙女が遺していった宝貝は、禁鞭以上に使い手を選ぶ。明永の宝貝のことは、一時期金鰲島にまで噂として広まった。皆の中から明永という存在がいなくなると共に、その噂も消えていってしまったが。 明永が再び目を覚ますのは、死ぬときにいたのと同じ部屋の光景の中だった。部屋は、全てそのまま同じのようで、どこかが何か違っていた。何が違うのかは、最初分からなかった。ただ、出入り口だった扉は固く閉ざされ、これはこの体の持ち主である少女の部屋に続いているのだなということだけ分かった。 少女は仙人界でも名前を付けられなかった。恐らく原始天尊が、明永仙姑の魂魄の入っている彼女に、名前を付けるのを躊躇っているのだろうと明永は思った。少女は人間界での名前であるのまま、崑崙山で過ごしていた。原始天尊の二番弟子という立場にあり、力もそれなりに備わっていた。は、明永の宝貝をすぐに使いこなした。封神計画の途中で、原始天尊から宝貝の仕掛けについても教わったは、コツもすぐに見出すことが出来た。 そんなが危機的状況に陥ったのは、明永は三度だったと覚えている。一度目は、趙公明と戦っていて水の中に落とされた直後。二度目は仙界大戦で王天君の生物宝貝に寄生されたとき。三度目は、精神的なものだったようだが、これも仙界大戦の中で、十二仙が聞仲に封神されてすぐだった。それまでにも明永は、その部屋にいるだけでまるでこの目で見ているように外の状況が分かったのだが、その三度だけは様子が違っていた。固く閉ざされているはずの扉が緩み、すぐそばでの気配がした。しかしその気配はとても弱い。だから明永はに呼びかけた。大丈夫だと言った。 趙公明のときは、明永の声はに聞こえなかったようだった。しかし不安定になっていた扉は緩んだまま、少しだけの部屋と繋がって、明永の力がの方へ流れ出していた。だからあのとき、は突然それまで以上の強い力を使うことが出来た。どちらの意識もある状態でこのまま扉が開いてはまずいと思った明永が、それ以上力が漏れないように必死で扉が開くのを止めたために、すぐには元に戻ったのだが。だから女カと戦っていたあのとき、明永とが面と向かって喋ったのは一度きりだが、接触したのは四度目だったのだ。 「私は、もう充分に生きました」 明永は、全ての力をへ渡した。ただし、明永仙姑という意識だけは渡さなかった。 「あなたに、私の持っている力の全てをあげます。私はここを出ていきますから」 私は私を連れて行く。私という存在と共に、私はあなたとお別れします。一方的に出会っただけだったけれど、の中にあった部屋は居心地が良かった。部屋がどこか違うように思えたのは、死ぬときにいた部屋の冷たさがなかったからだった。この部屋はとても明るく温かい。は、どこか似ていたのかもしれない。温かさに似た優しさ、誰かを思いやれる気持ち、大切な人に出会えて幸せだと思う感情を、大事にずっと持ち続けていたから。本人は、気付いていないかもしれないが。 「今まで本当にごめんなさい。それと、沢山ありがとう。私の力を必要だと…少しでも、思ってくれて、ありがとう」 心からそう思った。ありがとう。勝手な我が侭を、力を受け入れてくれてありがとう。あなたの中で、もう一度、生かしてくれてありがとう。とても大切なことを教えてもらったのは、私の方です。きっと、私のためにあなたがここにいるのではない。あなたがここにいるために、私が存在しているのです。それでも不思議と、悲しいとは思わなかった。 「大丈夫、あなたは死にません。生きて、そして、大切な…大好きな人を守って。あなたにはそれが出来る」 真っ白な部屋が遠くなっていく。空がとても近い。ここからなら、全てが見渡せる。そういえば、妹の大切にしていた家族の子孫はどうなっただろうか。明永はふと思い出した。ちゃんと今も元気に生き続けているのだろうか。見守れなくて残念だと思う。けれど、そんなに固執しなくても大丈夫だ、もういいのだ、私の役目は終わった。の姿が見える。妹がどこかで笑ってくれているような気がした。 妹に固執して生きていた昔の私も、死んで全ての力を授けた今の私も、最後には全て同じになるのだ。同じ名を持つあなたに別れを告げて。 「――明永さん」 が呼んだ。大丈夫、あなたはきっと笑っていける。これからもずっと。 戻 前 次 2006,09,20 |