光の塊が消えた後、そこには太公望と女カが戦った痕だけが残った。地が割れ、岩が崩れ、なんとも悲惨な状態だ。あの二人の戦いがどれほどのものだったのかということが分かる。 「…お師匠さまは?」 武吉が呟いた。 「黒点虎?」 申公豹が聞いた。黒点虎は千里眼を持っているため、どこに誰がいるのか、そして誰がいないのかということが分かるのだ。しかし、黒点虎は首を横に振った。 「…あの人どこにもいないよ。この世界の、どこにも」 黒点虎のその簡潔な言葉が、全てを教えてくれた。どこにもいない。辺りはやけに静かだった。 「…さん」 気が抜けたようにぼんやりと突っ立ったまま、光の塊があった場所をは見つめていた。武吉と四不象がに近付く。は二人を見た。四不象は涙目で、武吉は悲しさなのか悔しさなのか、表情が歪んでいた。 「…私、今度は覚えてる」 武吉と四不象はを見つめた。 「太公望と私が、最後に交わした言葉」 どうしてなのだろうと思った。それが、何に対してそう思ったのかも分からない。 「太公望は私に、死ぬでないぞって言った。だから私は、それはこっちのせりふ、って言ったの」 は力無く笑った。武吉はに抱きついた。あまりにも悲しくて、寂しかった。太公望は、女カの光と一緒にいなくなった。消えてしまった。 「…お別れ、言ってないよ」 そんな暇さえ、与えてくれなかった。さよならすら、告げられなかった。 さよならの別れ 蓬莱島は崑崙山と金鰲島両方の仙道が住まう、新しい仙人界となった。魂魄体となった人たちは、ワープゾーンの中に造られた「神界」というところに住んでいる。神界は、燃燈が行方をくらましていた間に造っていたもので、発案者は王奕時代の太公望だという。魂魄体である普賢や天化たちは神界に、たち仙道は蓬莱島に住むこととなった。なので神界は、魂魄体である人たちが住まう場所であると同時に、仙人界と人間界を繋ぐ場所という機能も果たしている。 「それにしても凄いわよねえ!蓬莱島を次の仙人界として使うことまで、封神計画の中に入ってたなんて!」 女カを倒し、その後に蓬莱島に仙人界の拠点を置くことは、当初から決まっていたらしい。人間界から離れ、人間界との関わりをこれ以上あまり持たないようにするためだった。女カという「歴史の道標」はなくなった。人間界も仙人界も、それぞれ自分たちで歩いていくのだ。 「あーでもようやく一段落付きそうね。楊ゼンってば人使い荒いんだもの」 蝉玉のしかめ面に、は笑った。楊ゼンは仙人界の教主となった。そして燃燈が人間代表、張奎が妖怪代表として、楊ゼンと三人で今の仙人界をまとめる形となっている。蓬莱島を次の仙人界にするための準備や仕事は山のようにあった。まず、今まで全くと言っていいほど交流のなかった崑崙の仙道と金鰲の仙道が同じ場所に住むことになるため、その辺の問題から解決しなければならなかった。金鰲出身で、今は土行孫のために崑崙側についた蝉玉が、その面で大いに活躍した。 「まあ普賢のお茶でも飲んで。お疲れ様蝉玉ちゃん」 「うー、普賢さんのお茶、生き返るわー!五臓六腑に染み渡る…」 蝉玉の様子に、普賢がくすくすと笑う。と蝉玉は神界に来ていた。割り当てられた仕事も終わり、普賢とお茶を飲もうと言うことで、二人で普賢のいる神界を訪ねていた。普賢は大きな木の下に作ったテーブルにお茶を用意して、椅子に座り二人を待っていた。この神界は封神台の中と同じような原理が働いていて、この中にいると魂魄体の人たちも実体のように触ることが出来る。また、この神界から発する封神フィールドは、蓬莱島全体を包んでいるそうだ。だから蓬莱島での宝貝大会で、魂魄が飛んだのだった。 「二人は今からどうするの?」 普賢が訊ねた。 「んー、私は今からハニーと一緒に、式の日取りやその他諸々の計画を練ってくるわ」 お茶菓子を食べながら蝉玉が言った。 「…結婚式、ほんとにするんだ?」 「なぁに言ってるのよちゃん!当ったり前じゃない!安心して、ちゃんには一番に招待状を送るから!」 とりあえず、ありがとう、とは言っておいた。土行孫の引きつった顔が目に浮かぶ。それでも蝉玉はとても嬉しそうに、どんなドレスを着るなど、どんな式にするなど、生き生きと喋っていた。とりあえず、残っている仕事が全て片づいたらすぐに開くということだ。蝉玉のことだから、数週間か早ければ数日後には実現しているだろう。 「ちゃんは?」 「私はちょっと人間界に行ってこようと思う」 普賢に、は答えた。「人間界?」と蝉玉はきょとんとした。 「これから人間界に干渉できるのは、普賢みたいにここにいる「神さま」だけになるでしょ?行けるときにやっぱ行っとかないと寂しいから」 「そっか…そうなのよね、これからはあんまり頻繁に向こうに行けなくなっちゃうのよね。うん、私もハニーと式を挙げたら、パパに報告しに行かなくちゃ!」 うきうきと蝉玉は言った。最早蝉玉の頭の中には土行孫との結婚式のことしかないようだった。 「でも、人間界に何の用事なの?」 普賢が再び訊ねた。は、なぜだか言いにくそうに笑みを浮かべた。 「…明永さんにね、お別れをしてこようと思って」 苦笑いのような、照れ笑いのような笑顔で答える。 「やっぱり私、明永さんには感謝してるの。最初は、私がここにいるのは明永さんの為だったのかってすごく嫌だったけど、考えてみると、明永さんのお陰で私はここにいるんだよね。で、最終的に明永さんは私に力を全部くれて、消えていった。私の身体にそのまま居座ることだって出来たのに、明永さんはしなかった。なんか…私自身何が言いたいのかよく分かんないんだけど、でも明永さんにお礼とお別れ言いたいなあって思って」 に、普賢と蝉玉は微笑んだ。 「明永さんは、人間界で生きて、人間界にあった崑崙山で亡くなったから、お別れ言うのはやっぱり人間界だと思う。だから行ってくる」 そう言って、はお茶を飲み干した。 「お茶、ごちそうさま普賢。そういうわけで私今から人間界に行ってくるから、蝉玉ちゃんは先に蓬莱島帰っててね」 椅子から立ち上がったに、普賢はどういたしましてと言った。 「あら?でもちゃん、楊ゼンから通行証もらった?」 蓬莱島から人間界に行くためには、楊ゼンが発行してくれる通行証をもらわないといけない。その通行証を、この神界にいる原始天尊に見せて初めて、蓬莱島の仙道は人間界に行けるのだ。しかしは、今日神界に来るときは蝉玉と一緒に、楊ゼンのところには寄らずに来た。蝉玉と合流する前にもらっておいたのだろうか。 「…じゃあ、いってきます!」 は蝉玉の問いには答えず、笑顔のまま手を振って素速くその場から逃げるように駆けていった。 「……忘れてたのね、ちゃん。あとで楊ゼンに怒られてもしらないんだから」 そして、今更蓬莱島に戻って楊ゼンのところに行き通行証をもらうという手間は面倒だと思ったようだ。蝉玉は苦笑しながら呟いた。普賢はの姿を見送り、おかしそうに笑った。 普賢、蝉玉と別れて、はとりあえず原始天尊に見つからないよう人間界に行くことにした。原始天尊はこの神界全体の形となっている岩山の、比較的高く見晴らしのいい場所にいるはずだった。 「見られないように、サッと宝貝使ってサッとワープゾーンの出口に行かなきゃね!」 ここに蝉玉がいたら、楊ゼンから通行証をもらった方が絶対に早いと言っただろう。逆に太公望がいたら、一種の遊びの感覚で付き合ってくれただろう。そこまで考えて、は自然と顔が綻ぶのを感じた。 「ーっ!」 そのとき突然大声で呼ばれ、はびくっとした。見上げると、近くの岩の上に天化と葦護がいた。 「ちょっ…大きい声で呼ばないで!原始天尊さまに聞こえたらどうするのっ!」 口元に人差し指を当て、は葦護に言い返した。 「…さんの声も十分でかいさ」 「なんだ、かくれんぼでもしてんのか?」 呆れたように笑いながら呟いた天化の横で葦護が聞いた。は二人のいる岩の上まで宝貝を使って上る。 「楊ゼンさんから通行証もらってくるの忘れたから、原始天尊さまに見つからないように人間界に行こうと思ってるの」 「んなめんどいことしなくても、ぱっと蓬莱島戻ってぱっと通行証もらってくりゃいいじゃねーか」 葦護の言葉に、は黙る。天化は笑っていた。 「…そういえば、天化くんと葦護くん、前から仲良かったの?けっこう意外な組み合わせ」 二人が一緒にいるところなんて、今まで見たことがなかった。少々タイプも違うように思える二人が揃って一緒にいるなんて、珍しい気もした。 「実は俺ら気が合うんだって。ほら、俺らって同期くらいのもんだからさ。あ、も混ざりたい?」 「いや…だから私は今から人間界行ってくるから」 そういえば天化も葦護も道士になってまだ日が浅かったなと思いながら、胸の前で手を振り、断った。 「そういや原始天尊さまなら、さっきここと反対側の岩場にいるの見かけたさ」 天化が言った。ぱっとの表情が明るくなる。 「本当?やった!じゃあここから行くことにする!」 「気を付けるさ、さん」 「うん、ありがとう」 「変な男についてくなよ。って外見だけは若くてけっこう可愛いからな」 「うん、余計なお世話」 天化と葦護とも別れ、は宝貝の風で浮くと、原始天尊に気付かれないよう素速くワープゾーンの出口を目指した。しかし、ワープゾーンを抜けた直後に、原始天尊もそれなりに今でも千里眼を使えたということを思いだした。原始天尊と楊ゼンの二人から叱られるのは必至かもしれない。 「…ああ、もういいや」 ここまで来て引き返していたら、今日はもう人間界に来るのをやめてしまいそうな気がした。すでにワープゾーンを抜けたのにそれは勿体ないよなと思い、潔く帰って怒られることにする。この考えこそ、楊ゼンに怒られそうだということは、もう考えないことにした。 明永仙姑に別れを告げる場所はもう決めていた。自身、何十年もお世話になった場所。今はもう、大きな岩山がなんらかの原因で崩れてしまったような場所にしか見えなくなってしまっているが。宝貝で飛んで、そこを目指す。すると、その途中に花畑を見つけた。一面に、黄色や桃色や、薄い青色の花などが何色も沢山咲いていた。そういえば、今は花が咲くような季節なんだな、とは気付いた。そして、手ぶらよりも何かあった方が良いかもしれないと思い、その花を摘んでいくことにした。花を摘むなんて何年ぶりだろう。なんだか花を見ていると、少しだけ楽しい気分になる。 ワープゾーンを抜けたときは真上にあった太陽も、目的地に着いたときには少しだけ傾いていた。 「…着いた」 ほっと息をつき、その場に降りる。崑崙山と金鰲島が落ちた場所。明永仙姑が生きた場所であり、また明永仙姑ととの共通点でもある場所だとは思っている。沢山の岩で溢れているのに、どこか虚無感に満ちている。いつ見ても、やっぱりなんだか悲しくなるな、とは思った。以前に見たのは、崑崙山と金鰲島が落ちた日の夜だった。ここで一人でぼんやりしていると、太公望が来てくれた。丁度、この場所だった気がする。思い出すと、なんだか笑えてきて、花を傍らに置き、はその場に腰を下ろした。 「…明永さん」 風が吹いた。隣でかさかさと、花びらや葉が擦れあって音が鳴っている。は膝に手を置いて空を見上げた。宝貝は空を飛ぶために羽衣の形にしていたので、風でひらひらと揺れた。 明永はに全ての力を渡すとき、にとっての大切な人を守ってと言った。そしてにはそれが出来る、とも。けれど、太公望は女カと一緒に消えてしまった。どこに行っても、何をしても、思い出すだけの「思い出」になってしまった。もういない。 「…どうしよう…」 できなかった。太公望はいなくなった。死んでしまったのだ。太公望が大切だったと、大好きだったと、今ならきっと胸を張って言える。その対象がいなくなってしまった今になって。ごめんなさい。大切だと思えた人を、失ってしまうなんて。 はいつの間にか泣いていた。空を見上げたまま、涙が頬を伝っていた。風が、涙で濡れた頬を撫でるように通りすぎていく。さっきまで風は後ろから吹いていたのに、風向きが変わっていた。は涙を拭う。そして花を手に持ってその場に立ち上がった。明永仙姑にお別れとお礼を言いに来たのに、こんな辛気くさい顔や気持ちでは駄目だ。 明永仙姑は、大事な人を大事だと思える大切さを教えてくれた。大事な人を守ろうとする気持ちのことも。力を受け継ぐとき、明永仙姑自身の命も受け継いだように思った。彼女は死んでしまっていたけれど、彼女のことを思い出し、忘れないことは出来る。明永仙姑は、忘れないことの大切さも教えてくれた。大事な人がいなくなってしまったとき、その人のことを最後まで思い出せる人になりたい。明永仙姑本人と喋った時間はとても短かったけれど、力と一緒に沢山のものをくれた。そしてなにより、明永仙姑は、誰よりもに近い場所で、いつも守ってくれていた。お礼として出来ることはこれくらいしかないけれど、せめて最後に花を捧げようと思う。 両手に持っている花を、その場に一気に全て投げた。色とりどりの花が宙を舞う。瞬間、すぐそこでつむじ風のようなものが発生したのか、重力に従って落ちていた花が全て、風によって空に舞い上がった。一瞬吹いた強い風に、は思わず目を瞑る。 「おー、きれいだのう」 すぐそこの岩の上や、自分の頭の上に、風で舞い上がった花や花びらが落ちてくる気配や感触がした。ぱらぱらと小さい音が聞こえる。は振り返った。 辺りには、弱い風だけが残っていた。その風に乗っているのか、舞い落ちる花びらや花は、地面に着くのが少し遅い。その、沢山降る色の向こうに、知った姿が見えた。その人は、と自分の間にも降っている花を見上げて笑みを浮かべている。 「……うそだ!」 思わずは叫んだ。そして一歩後退る。しかしその目はしっかりと、目の前にどういうわけか居る太公望を凝視していた。 「…第一声が「嘘だ」もなかろう…」 呆れたのか、太公望は苦笑いを浮かべる。は首を左右に振った。 「だ…だって、だって、……あっ分かった!あなた楊ゼンさんですね、こんな手の込んだ嫌がらせするなんてひどい!そりゃあ、めんどくさかったからって通行証もらいにいかずに人間界に来たのは悪かったですけど、そんなひどい変化しなくったって…!」 言いながら、は再び目の奥が熱くなっていくのを感じた。最後の方は声が震えた。涙がこみ上げてくる。太公望は相変わらず苦笑していた。いくら待っても、その姿が楊ゼンに変わることはなかった。 「…おぬしは、わしが本当に楊ゼンだと思うとるのか?」 は俯く。雫がぽたりと足下に落ちた。そして、ゆっくりと首を横に振る。思わなかった。思うはずがなかった。声も、笑顔も、纏う空気もどれも全て、が知っている太公望だった。けれど信じられなかった。喜んでいいのかどうかすらも分からなくなった。ただ、涙が溢れてくる。拭っても拭っても止まらない。 太公望はに近付くと、俯いたままのの頭をゆっくりと撫でた。そしてそこでようやくは、自分の中で渦巻いているものが、大きな悲しみと寂しさを感じていた今までの痛みと、いま感じることが出来ている嬉しさとがごちゃ混ぜになっているものだと分かった。 目を擦り、は顔を上げた。すぐそばに太公望がいる。誰かがそばにいるというだけで、こんなに嬉しいと思えることが、今までにあっただろうか。は、太公望を見上げたままそっと笑みを作った。 「――おかえりなさい」 に、太公望は驚いたのか目を丸くした。それまでの髪を梳いていた手が止まる。しかし、すぐにその顔は綻んでいく。 「…ただいま」 太公望は、を抱き締めた。今までに抱き締めたどんなときよりも、ずっと強い力だった。 戻 前 次 2006,09,17 |