確かには王奕と言った。遙か昔、初めて崑崙山に来たときに名乗り、自分の名前だった名を。しかしは知らないはずだ。太公望は何も言うことが出来ず、を見つめた。は笑みを崩さないまま、太公望を見つめ返している。


「とにかく逃げるぜ太公望!」


四不象が言った。四宝剣の攻撃が通用しなかったことに動揺しているらしく、女カは次の攻撃をしてこない。しめたとばかりに四不象は一目散にその場を放れる。によって吹き飛ばされた土煙の影に再び隠れた。


「おぬし…」


太公望はぽつりと呟く。太公望とのすぐそばで、状況が全く掴めず、武吉は二人を見比べるように視線を送ることしかできなかった。


「…、どうしてその名を…?…いや、…おぬしは一体、」


「忘れてしまったのですか?ずっと昔、2000年前に会ったことがあるというのに」


は笑いながら言った。太公望は、彼女の言葉と態度に、二の句が継げなくなった。このは、いや、彼女は一体誰だ?
そのとき、ふっと何かが頭を掠めた。ずっとずっと昔に、王奕時代に一度だけ会ったことのある人の顔が。色素が薄く長い髪を持ち、そして、確かこのの持つ宝貝と全く同じものを持っていた。今目の前にいると同じように丁寧なしゃべり方をする女性で、名前は、


「…明永、仙姑…」


その名を言うと、はにっこりと笑う。途端に、言いようのない気持ちが太公望を襲った。表情が厳しいものへと変わる。


「おぬし…おぬし、「」を、どこへやった…!?」


は驚いたらしく目を丸くしたが、やがて一層その笑みを深めた。


























彼女の役目




























「なーんてね!」


ぱっと、はその表情を今までのと別のものに変えた。


「……は?」


思わず、太公望は間の抜けた声を出す。は太公望の正面に腰を下ろすと、にこにこと笑いながら太公望の顔を見つめた。


「まさか騙せるなんてねぇ。やっぱり太公望、王奕だったときに明永さんに会ってたんだね。明永さんが、王奕だった太公望のこと、知ってる風だったから」


うんうんと一人で頷きながら、は納得していた。太公望は状況が飲み込めず、を見つめ返すことしかできない。


「…おぬし、…か?」


「うん」


はこっくりと頷く。確かにこの態度、しゃべり方、雰囲気はのものだ。間違いない。


「つい今し方、その明永さんに会ったから、真似してみたのね。見事に騙されてくれてありがとう!太公望、武吉くんや四不象ちゃんや私に心配かけたから、その仕返しにちょっと騙してみようかと思って。ねえ、焦った?私がいなくなったかと思って焦った?」


楽しそうには訊ねる。


「……スープー、女カはどうなっておる?」


太公望はから目を逸らし、四不象の顔を見下ろして聞いた。


「あっ?あ、ああ。今んとこ何もない。が散らして周りに集めた土煙、集中してて濃いから、向こうからも見えにくいんだと思うぜ」


それに女カは、一度とは言え四宝剣の攻撃が効かなかったことに結構動揺しているようだった。


「…ちょっと、無視しないで答えてよ」


敢えて質問を無視した太公望に、は突っ込む。そのとき、ようやく武吉が口を開いた。


さん、大丈夫ですか?どこか怪我されてるんじゃ…。急に倒れたから僕びっくりしちゃって…」


武吉は、にぐっと詰め寄る。は嬉しそうに笑みを浮かべた。


「うん、ありがとう、どこもなんともないよ」


笑顔のまま首を振って答える。


「心配かけてごめんね」


「いいえ!さんがなんともないのなら良かったです!」


武吉も笑顔になり、ほっと息をついた。


「それにしても、あんまり時間経ってなかったみたいだね。明永さんとは、結構な時間喋ったように思ったんだけど…」


「…その、明永仙姑と喋ったとかいう話は、また後で聞くとしよう。来たぞスープー、逃げろ!」


四宝剣からの光が、右方向から飛んできて、四不象は下へと逃げた。女カが追ってくる。


「たかが小娘の宝貝に、わらわの技が抑えられるはずはない!先程のようなまぐれは、次には無いぞえ!」


叫びながら次々と向けてくる攻撃を、四不象は軽快にかわしていった。避けたところにあった建物や壁がどんどん破壊されていく。


「そういえば、先程の女カの攻撃、あれは一体何がどうなったのだ?」


女カからの四宝剣からの光が、自分たちに当たることなく相殺され、風になって消えたように太公望には見えた。しかも、の宝貝がそうしたようだった。


「…女カのあの攻撃、確かに無敵のようだけど、限界はあるでしょ?一度に破壊できる範囲や程度は限られてる。だから、その力と同じだけの力をこっちからもぶつけて相殺したの。しかもいま女カは力を抑えて攻撃してるから。明永さんからの力で、私、それが出来るようになった」


の宝貝は、宝貝からの攻撃を、自分の宝貝からの風に巻き込んで破壊したり跳ね返したり出来る。さすがに女カの攻撃に対しては、跳ね返すことが出来るほどの余裕はなかった。けれど、同じだけの量の力をぶつけて、相殺することは出来たのだ。


「明永さんが力をくれたお陰…、って、あれ?太公望…」


「えっ?あれっお師匠さま、いつの間にいつものお師匠さまに」


も武吉も目を丸くした。太公望の姿が、喜媚の羽根によって封神される前までの姿に戻っていたからだ。全く気付かなかったのだが、何が突然どうなったのだと、と武吉は頭の上に疑問符を浮かべる。


「今、片割れに用事を済ませてきてもらっておるのでな」


意味深に太公望が笑うのを見て、二人は益々首を傾げる。が、はピンときて太公望を見た。太公望は、王天君と融合して伏羲というひとになった。その太公望が、今までの馴染みある太公望の姿になったということは、つまり、


「…王天君が?」


なんとなくは太公望だけに聞こえるように、小さな声で言った。に、太公望はにやりと笑う。


「さー、スープー逃げ切るぞ!もう少しの辛抱だ!」


女カから、攻撃が雨のように容赦なく降ってくる。かわしてもかわしても、女カからの攻撃は止まなかった。女カの力は底がないのだろうかとが思ったそのとき、王天君が、自らの空間宝貝で四不象の上に現れた。


「王天君!」


「おーやってくれたか、王天君」


太公望に、王天君は「ああ」と小さく頷いた。


「な、王天君だって?」


四不象が驚いて声を上げる。


「うるせえカバ」


「話は後だスープー」


そして二人は一瞬で、一人になった。伏羲の姿に戻る。融合できるのだから間違いはないのだろうが、今の王天君と太公望の態度の違いを見ても、二人が同一人物だという話は、信じがたい事実である。にとって、明永から聞き、たった今目の前で二人が伏羲になったのを見た以上、信じるも信じないもないことは明らかだった。


「よしスープー、上の穴まで飛ぶのだ!」


太公望は、この地下都市のあった場所まで下りてくるための通路を指差した。


「…しゃーねーな!」


四不象はスピードを上げてその穴まで急上昇する。その四不象の上から太公望は言った。


「女カ!おぬしの本体を人質に取った!宇宙に捨てられたくなくばついてこい!」


女カは動きを止め、攻撃もやめる。しかし、女カの怒りの度合いは上がったように見えた。


「…あなどりがたし伏羲!腐ってもわらわの同胞か!」


女カは四不象の後を追いながら、渾身の一撃をぶつけた。ぎりぎり四不象たちには届かなかったが、明らかに今までの力を抑えた攻撃より威力が増していた。穴の入り口が壊れる。女カは通路を上へ上りながらも、攻撃を止めない。女カの攻撃でどんどん壊されていっているのだが、女カ本人は気にもとめていなかった。


「地上で戦うの?この蓬莱島の?」


は訊ねる。崑崙山2に戻ったはずのみんなもいるであろう蓬莱島の地上は、澄んだ空気に満ちていた。綺麗な湖や山、沢山の動物たちのことを思い出す。太公望は頷いた。


「蓬莱島の地上で、他のスーパー宝貝を持っている者たちと共に女カと戦うことになっておる」


そして太公望は、どういうわけだか笑みを浮かべてを見た。


「そこで、おぬしの出番だ」


「…私?」


は首を傾げた。


「わしらと女カの戦いは、強い力のぶつかり合いになる。どういう状況になるかは目に見えておるな。しかしわしらには「守りの宝貝」を持つがおる。とすれば、おぬしのやるべきことはなんだ?」


「…あ」


太公望の言葉で分かった気がしたそのとき、女カとの距離は保ったまま、四不象は明るい光の中に飛び込んでいた。地上へと出たのだ。女カからの攻撃が追いかけてくる。間一髪四不象は逃げ切れたが、出口だった穴の周囲の地面はその攻撃で吹き飛んでしまった。今し方四不象が通り抜けてきたものとは比べものにならない大穴が完成してしまう。


「師叔!さん!」


地上では楊ゼンと燃燈が待ちかまえていた。大穴を作り上げた張本人である女カが四不象を追いかけて地上へと飛び出してくる。太公望達は、その女カを真正面から迎えた。


「ゆくぞみなの者!最終決戦だ!」


太極図をその手に持ち、太公望が言った。楊ゼン、燃燈もそれに続く。


「…が、ちょい待ち。先にやることがあったわ」


「……なんですか師叔、この期に及んで」


気を引き締めた瞬間の待ったに、楊ゼンは脱力した。


「大事なことだ、わしはこれから万仙陣を布く」


「万仙陣?」


楊ゼンが訊ねた。


「魂魄体であるあやつには通常の攻撃は効かぬ。だが万仙陣を布けば、おぬしらの宝貝でも女カにダメージを与えられるようになるであろう」


太公望が言って、楊ゼンは納得したらしく頷いた。


「陣を布くには少々時間がいるから、おぬしらはその間わしを守ってくれ」


楊ゼンと燃燈は頷く。はその場に立ち上がった。気付いて、太公望がを見やった。


「行けるか?


笑みを浮かべ、は「大丈夫」と言うと首を縦に振った。


「ようやくおまえは、目が覚めたようだな」


後ろから燃燈の声がして、は振り返る。燃燈の力強い目との視線がぶつかる。


「はい、ご心配をおかけしました」


振り返ったが笑っているのを見て、燃燈はふっと小さく笑った。


さんはどちらへ?」


楊ゼンの問いに


「私は、「みんな」を守りに」


笑みを崩さぬままそう短く答えると、は四不象の上から飛び降りた。かなりの高さだったが、宝貝の風で難なく地面に着地すると、崑崙山を目指して一目散に駆けた。上空では四不象が動き出す。太公望が万仙陣を布き始めたのだ。四不象は速いスピードで空を飛び、その後ろには万仙陣の文字が空に刻まれるように残っていく。四不象から一人離れたを女カは警戒するだろうかと思ったが、その注意は全て万仙陣の方に引きつけられており、そんな心配はいらなかった。
崑崙山のすぐ近くの草地に、崑崙の仙道も金鰲の仙道も全員が集まっていた。が仙道たちの姿にほっと息をついたのと同時に、空が巨大な音と共に光った。見上げると上空には女カの攻撃による爆発がいくつも起き、空を埋め尽くしている。しかも目を凝らすと女カが何人もいるように見える。きっと魂魄分裂の技を使っているんだとは思った。女カからの総攻撃が始まった。急がなければ。


「…よし」


小さく息を吐くと、は宝貝の先端に付いている丸いガラス玉のような鉱物の周りで音をたてて揺れる、青色をしたガラスの飾りを一つそこから引きちぎった。女カがそこにいる崑崙と金鰲の仙道たちに四宝剣を向けているのが見える。は、その女カと仙道たちの間に向かって、思い切り、そのガラスを投げた。ガラスは彼ら集団の頭上の、ちょうど真ん中ほどでぴたりと止まり、一瞬で彼らを取り囲むほどの、風で出来ているドームを作った。女カとの隔たりになったそれは、四宝剣からの攻撃を溶かすように消滅させる。風の壁は女カからの攻撃で不安定に揺れたが、それと同時に女カの攻撃も相殺しているのである。地下都市で一度女カの攻撃を跳ね返したのと同じ原理で、それをドーム状にしたものだった。


「…あ!やっぱりちゃん!」


なんだなんだとざわめく仙道たちの中、誰より先に蝉玉がに気付いた。


「みんな、その中から出ないで!その中にいたら、なるべく凌げるようにしてるから!」


蝉玉や太乙が、手を振ってに答えた。金鰲の仙道たちもそれに逆らおうとはしない。外に出ても四宝剣の餌食となるのは目に見えていたからだ。ドームのてっぺんで、ドームとしての力を保っているのガラスが砕けてしまうまで、彼らは大丈夫だ。なるべく力も込めた。太公望が万仙陣を完成させるまで、なんとか保ってくれるのを祈るばかりだ。


ちゃんとドームが防御の役割を果たせていることを確認し、は地を蹴って崑崙山の頂上に飛び上がった。上昇気流に乗ったように空を駆け上がり、着いた崑崙山の頂上からは、蓬莱島の地上が見渡せた。は再びガラスの飾りを引きちぎるとその場に膝をつき、崑崙山の頂上、土の中に尖った石を押しつけるように、そのガラスを突き刺す。小石なんかを巻き上げるくらいの風がガラスから起き、それはの衣服と髪も揺らした。風は湧き水のように崑崙山の表面を滑り、全体を包んだ。


「小癪な真似を、小娘!」


女カが何人も向かってきた。は立ち上がると、宝貝本体に力を込め、自信の周りにも防御の風を起こした。四宝剣からの攻撃が崑崙山を包む風に勢いよく当たる。爆音を轟かせながら、四宝剣の光はいくつも現れたが、風を破ることは今のところなかった。しかしは足下で、小さなものだったがガラスにヒビが入る音を聞いた。


「…困ったな」


は小さく呟いた。やはり、本体から切り離した宝貝の一部ではあっても、こんなに小さな媒介ではすぐに限界がきてしまう。崑崙山全体という、蝉玉や太乙たち仙道だけではない巨大なものを、しかも四宝剣からのいくつもの攻撃から防御するには、このガラスでは小さすぎた。かといって、ここでいつまでも力を使うわけにもいかない。ガラスから、ヒビが広がる音がした。


!」


ハッと、は足下から顔を上げ正面を見た。燃燈だった。


「燃燈さ…」


燃燈は左手で術を繰り出し、崑崙山のそばにいた女カを全て倒してしまっていた。ばらばらと女カの魂魄の残骸が、消えながら地上へと落ちていくのが見えた。


「王奕がもうじき万仙陣を布き終わる。ここは私たちに任せろ!」


そういえばこの崑崙山には、体調が悪化してしまった竜吉公主がいるのだった、とは思い出した。なるほど燃燈が崑崙山を守ろうと熱くなるわけだ、とそこまで考えたところで、はそれどころじゃないと我に返った。が宝貝で作った風のドームのところには、半妖体の姿になっている楊ゼンがいた。空を見上げると、どういう技を使っているのか太公望達は女カからの攻撃を全て弾いているのが見えた。同時に、弾かれた四宝剣の光が蓬莱島の地上にぶち当たっているのも。


「ありがとうございます!」


は燃燈と楊ゼンに一礼すると、四不象のときと同じように、崑崙山から飛び降りた。太公望の万仙陣はもう少しで完成するようだった。最初に書き始めた文字のすぐそばに到達している。は目を閉じて大きく深呼吸をした。目を開けると、そこに広がる景色をじっと見据えた。緑色の草の生えた地、澄んだ湖が見える、草木で生い茂る森が見える、山も見える、足下では草といくつもの花が風に揺れていた。初めてこの蓬莱島に来たときに見えた景色、ついさっき崑崙山の頂上から見た風景を思い出す。


そのとき、辺りの空気が全てがらりと変わった。空に、いくつもの文字が刻まれる。万仙陣だ。始まる。


は宝貝を振り上げると、勢いよく地面に突き刺した。一拍置いて、風が宝貝を中心にして波紋のように広がった。波となった風はどこまでもずっと広がり、蝉玉たちの足下も駆け抜け、湖の水の上、樹木や動物はその形そのままを全て包んで駆け抜けて、山や谷にはその形に従い、どこまでも波のまま広がっていった。やがて広がっていた風と風がぶつかって一つになると、それは蓬莱島全体を包む防御壁となっていた。もうそれは「風」というよりも「空気」そのものが凝縮されたもののようだった。


「…なぁにこれ?ちゃんかしら…」


足下に突然広がったそれを見下ろし、蝉玉は呟いた。空気の壁は、足で踏んでもするりと抵抗無く突き抜ける。


「なんか…妙なもんだな」


葦護がなんとなく自分の宝貝でその壁を叩いてみると、思い切り強い力で弾かれた。宝貝は葦護の手から吹っ飛び、少し離れた場所に落ちた。その場でそれを見ていた者は、驚いて目を見開く。


ちゃん、あなたに、私の持っている力の全てをあげます。


地に垂直に立てた宝貝を両手で握ったまま、はその場に膝をつく。どこからか風が吹いた。髪が揺れるのを感じる。


明永さん、ありがとう。あなたに託された役目、私は絶対、果たしてみせる。


































      



2006,09,05