ぐん、と後ろから引っ張られたような感覚がしたとき、とても遠くで、けれどはっきりと


ちゃん」


そう呼ばれたのを聞いた。


「大丈夫、あなたは死にません」


「忘れる必要は、ないでしょう。忘れられたとき、それはもう一度死ぬのと同じことです。だから、…忘れないで」


どこかで聞いたことのある言葉も、響いてきた。けれどこの言葉は、今そこで誰かが言っているのではなく、どこからか甦ってきているような、そんな感じだった。そうだ、この言葉はずっと前に聞いたことがある。確か二つとも、仙界大戦の時に。


そして、はここで初めて悟った。これは、彼女の声だったのだ。


真っ白い光が目の前に広がる。


ちゃん」


とても優しい、温かい声だった。


























天つ風の記憶




























はハッとして目を開けた。すると、視界に飛び込んできたのは真っ白く一点の汚れもない天井だった。二三度瞬きをして、は起きあがる。いつの間にか、知らないベッドの上で眠っていたようだった。ベッドも天井と同じほど白い。辺りを見回すと、壁も床も、一面真っ白だった。


「目が覚めたようですね?」


声がして、はそちらに目を向けた。から見て真正面より少し右にずれた場所ある、部屋の扉の前に、いつの間にか一人の女性が立っていた。扉も例に漏れず白い。


「驚きましたよ、入ってくるなり眠ってるんだもの」


優しそうな笑みを浮かべ、女性はベッドの上に座ったままのに近付く。女性は、外見でいうと20代ほど。のよりも少し明るい色の長い髪が、歩くたびに揺れた。


「あなたは誰?って聞きたそうね。でも、あなたにはもう察しがついているはずですね」


女性は、ベッドの横に腰を下ろし、の顔を見る。女性は全体的に色素が薄いのかもしれない。瞳の色も、よく見ると少しだけ明るかった。は黙ったまま女性を見つめる。


「改めて、はじめましてちゃん。私の名前は明永仙姑。あなたの生きている「今」から、およそ2000年前に、崑崙山で死にました」


明永は、そう言ってにこりと笑った。だがはやはり、どう頑張っても笑みを作り出すことは出来なかった。


「…ここ、は…どこですか?」


は、じっと明永を見つめながら訊ねた。明永は、少し驚いたようにぱちぱちと瞬いたが、すぐに微笑んだ。


「ここは、あなたの中ですよ。もっとも、この部屋自体はあなたの中にある私の魂魄が映しているものだけれど」


明永が言ったが、すぐにそれを信じる、というか受け入れることは出来なかった。「私の中」というのは、一体どういうことなのだろう。明永の答えに奇妙な表情を浮かべたを見て、彼女は察しがいったらしい。


「あなたの意識の中、とでも言えばいいのかしら。眠ったときに見る夢のようなもの…とは少し違うかもしれないけど、そういうようなものです」


明永にも、この場所が自身にとってどういうものになるのかは、よく分かっていないのかもしれなかった。


ちゃんの中には部屋が二つある、と考えれば分かりやすいかもしれません。常に扉が開いて、いつも行動しているちゃんがいる部屋と、扉が開くことはなく、その存在さえも知られていない私の部屋があると」


明永は言った。二つの部屋は隣り合っているが、その隣人が互いに交流することはなく、の方は隣人の存在をつい最近まで知ることもなかった。


「それが今回、部屋の存在を少し前に教えられていたちゃんは、さっき勢いよくこの部屋の扉を開けて、ここへ入ってきたんです」


は明永を見続け、言葉を聞き続ける。


「原因・理由は、あなたも分かっているでしょう」


明永は少しの間だけ正面に向けていた顔を、再びに向けた。


「あなたが、私の「力」を必要としたから、ですね」


何も言わず、黙ったままのに、明永はまたにこりと笑った。その笑みを見て、は口を開いた。


「…どうして、あなたは今まで、出ていかなかったんですか?」


封神計画のために魂魄体となってまで残った明永は、の体に入っても、外に出ては来なかった。ここがの中だというなら、明永仙姑は確かにここに、ずっと存在していたのだろう。今までどうして外に出てこなかったのか。訊ねたに、その質問の中身を理解して明永はゆっくりと首を振った。


「私は最初から…「私自身」として、あなたを押し退けてまで外に出る気はありませんでした」


「でも、原始天尊さまは…!」


食い下がるに、明永は頷く。


「確かに、原始さまは私に目覚めてほしいようなことを言っていましたね。けれどそれは原始さまの望みであって、私の望んでいることではない」


「じゃあ、どうしてあなたは、今、出てきてくれてるんですか?」


再び訊ねたに、明永は目を丸くしたが、やがてふふ、と笑った。


「…色々なことを一気に体験しすぎたせいで、頭が混乱してるようですね?いい?ここは、あなたの中です。あなたが自分から、私のいるこの部屋に入ってきてくれたんですよ」


明永に言われ、ああそうか、とは頷いた。


「いつものあなたらしくありませんね、ちゃん。もっとゆっくり、落ち着いて考えていいんですよ」


明永はくすくすと笑いながら言ったが、彼女の「いつもの」という言葉が少し引っかかった。


「いつもの、って…?」


の疑問に、明永は「ああ」と頷く。


「あなたの中から、私はいつも見ていました。見えていた、という方が正しいのかしら。魂魄体の私が…あなたの体に入ったときから今まで、ずっと」


少し申し訳なさそうに明永は言った。


「そうそう、向こうに戻る前に、あなたの疑問を全て解決しておかないと」


突然、明永は切り出した。


「あるでしょう?分からなかったこと。「始祖」だとか、「伏羲」だとかいう新しい言葉」


はっとして、こくこくとは頷いた。そうだ、この人は封神計画が持ち出されたという2000年前に生きていた人なのだ。つまり、が疑問に思ったことのほとんどを、きっと知っている人。


「まずは「始祖」について。始祖、というのは、地球外からずっとずっと昔にやってきたひとたちのことです。女カはこの始祖のリーダー的存在だったそうです」


始祖たちは、滅んでしまった自分たちの星から地球へとやってきて、偶然見つけたこの地球に住まおうとしたひとたちのこと。彼らはこの星の生き物と融合し、この星として生きようと案を出した。始祖は女カを除いて全員賛成したのだが、女カだけがこれに反対し、自分たちの故郷であった星に、この地球を似せて作ろうと持ちかけたそうだ。しかし、この女カの案に危惧の念を感じた他の始祖たちは、女カを封印してこの星の生き物と融合したのだという。


「えっと…じゃあ「伏羲」っていうのは?女カがしきりに太公望のことを、そう呼んでたように思うんですけど…」


明永は頷く。


「伏羲というのは始祖の一人で、つまり女カの仲間だったひとです。伏羲は万が一女カが復活した場合、女カの暴走を食い止めるために残った最後の始祖なのだそうですよ。崑崙山に初めて来たときは、彼は「王奕」と名乗っていたけれど」


「王奕?」


やはりには聞き覚えのない名前だった。


「そう。王奕っていうのは、実はちゃんも知っている、王天君が崑崙山にいたときの名前なんです」


「…王天君!?」


驚いて目を見開いたに、明永は苦笑いを浮かべた。そして、話を続けた。


「王奕は、魂魄を分裂することができる、特異な技を持っていました。それを知った原始さまは、王奕の魂魄を二つに分け、一つは王奕に戻し、もう一つは何年も保管しておいて、今から数十年前に、呂望という子どもの中に入れたのです。それが、太公望」


「つまり…太公望と、王天君は…同一人物だった?」


「そういうことです」


確かに魂魄となったはずの太公望が戻って来られたのは、恐らく王天君と融合したからだろう。明永からの、まさかの解説に、は眉を潜めた。ただし、明永は原始天尊が実際に呂望の体に王奕の魂魄を入れたのを見ていないし、そのことを誰からも聞いていないので、太公望が王奕であるというのは推測ではあったが、太公望が伏羲として戻ってきたということは、つまりそういうことだろうと付け足した。


「王天君が少し前に…あなたに対して、以前に会ったことはないかと訊ねたでしょう?それはきっと王奕時代に、今あなたの手にある宝貝を持った私と会ったことがあったから、完全にではないけれど、なんとなく何かを思い出したのかもしれませんね」


確かに、王天君からそんなことを聞かれたことはあった。しかしそのときは天化のことがあったときだったので、すぐにそのことは忘れてしまっていた。


「…さっきも言ったけれど、私はこの部屋で死にました」


明永は、突然ぽつりとそう言って、またから目を逸らして正面を向いた。明永の正面の壁際には一つの白いテーブルがあり、その上には透明の小さな花瓶が置いてある。花瓶には赤い花が一輪生けてあり、白ばかりの部屋の中で、妙に目立っていた。


「この部屋の風景は、私が死んだときとそのままです。私が、死ぬまでの数日間過ごした最後の場所でした。ものはそれなりに揃っているけど、殺風景でしょう?」


言われてみるとそうだった。ベッドやテーブル、鏡台なんかも置いてあるのに、この部屋はなんだかとても殺風景なのだ。白で統一されているからなのかもしれなかった。そしてよく見渡してみると、この部屋には窓が一つもないことには気付いた。ドアはあるが窓がない。しかも妙なことに、窓がないのに部屋の中は明るかった。天井や壁には明かりも点いていないのに。


「…本当にごめんなさい。あなたには、私のせいでとても辛い思いをさせてしまった。私の魂魄がなければ、あなたはあんなに辛い思いをせずに済んだのに」


最初から、明永仙姑のために仙人界につれてこられていたということ。明永仙姑に目覚めてほしいために、封神計画の最前線に据えたと言った原始天尊の言葉。


「…明永さんは…どうして、魂魄になってまで…残ろうと思ったんですか?」


死んだ後も魂魄体として残り、対女カのための戦力として他の人間の体に入れられることを、この明永仙姑はどうして了承したのだろうか。には分からなかった。問われ、明永は困ったような顔で微笑んだ。


「私には…妹がいました。両親を早くに亡くして、妹はたった一人の肉親でした。妹は体が弱く、若くして亡くなったのだけれど…。その妹が、亡くなる間際に私に言ったんです。「姉さんは、立派な仙女として、人々の役に立つ人になってね」と」


明永は自嘲気味に笑う。


「おかしいでしょう?何年も、何百年も前に死に別れた妹のそんな言葉を封神計画に繋げて、私は魂魄体になってまで、後世に残った。そのことが、無関係の一人の人間を、深く傷つけることになるという事実にも気付かずに」


悲しげな表情を浮かべ、明永はの顔を見た。は、なんと答えればいいのか分からなかった。


「じゃあ…あなたは、私に悪いからっていうことで…外に出ようとしなかったんですか?」


訊ねると、明永はそのままの表情で、ゆっくり首を振る。


「私は、いつまでも生きていたいから魂魄になって残ったわけではありません」


明永は胸の病のせいで死んだのだと、原始天尊が言っていたのをは思い出した。


「…生きたいとは…思わなかったんですか?」


「もちろん、死ぬことはとても悲しかったし辛かった。生きていたいとも思いましたよ。けれど、それが私の運命だったのだから、受け入れなければ我が侭でしょう?あの日、この部屋で目を閉じたあの時に、私の生は終わったのですから」


は黙る。


「ああ、違うわ。こんなのはきれい事に過ぎない」


突然、明永は首を振って大きく息をついた。そしてまた顔を上げ、を見つめる。


「結果的に、そんな言葉を並べたところで、私は結局我が侭だったのね。肉体こそ無いけれど、私は意識も力もそのまま、あなたの中に存在していたのだから」


結局、生への執着を捨てきれていなかった。妹の言葉が理由で残ったというのは決して嘘ではないけれど、生きていたいから残ったと言うことも正しい。


「本当に、謝っても謝りきれない。私の勝手な我が侭と都合で、あなたに酷いことをしてしまった」


明永の語尾が震えた。明永はそれ以上何も言わず、沈黙が訪れる。


「…いいえ」


その沈黙を破ったのは、の声だった。驚いて、明永は俯かせていた顔を上げ、に視線を向ける。


「…生きたいと、思うのは…我が侭でしょうか。誰でも思う、当然のことじゃないでしょうか」


明永はを見つめた。


「私だって、生きていたいと思います。もし自分の寿命が分かって、死ぬ覚悟が出来たとしても、それを受け入れることと、もっと生きていたいと思うことは、別ものじゃないですか?」


もうすぐ自分は死んでしまう。死ぬ覚悟は出来ている。でも本当は、もう少し、この世に残っていたかった。もっと生きて、これから先を見てみたかった。


「確かに私、原始天尊さまから明永さんのこと聞いたとき…どうして私がって思ったし…「私」は必要とされてないみたいで、すごく悲しかったです」


自分の存在理由は、見ず知らずの仙女のためだけなのかと思った。どこの誰かも分からない人のために、自分の存在が殺されたような気がした。


「でも、明永さんが生きたいって思った気持ちや…妹さんの言葉を忘れられなかったっていう気持ちは、すごくよく分かる、ので…」


も、死んだ両親のことは忘れないし、両親の顔や言葉も覚えている。もう何十年も前に死に別れたのに。明永は、泣きそうな表情を浮かべて微笑んだ。


「あなたは…本当に優しいのね」


は、明永が泣いているのかと思ってどきりとした。一瞬、明永の目尻が光ったが、頬を伝うことはなかった。


ちゃん…あなたの中にあるこの部屋は、私が生前に過ごした同じ部屋よりも、とても居心地が良かった」


温かく、優しい気持ちがいつも溢れかえるような、澄んだ光で輝いていた。


「それに、私は生きていたときより、とても沢山のことを体験出来ました。あなたのお陰で…と言ったら語弊があるかもしれないけれど…。私が勝手にここに居座っていたのだから」


この場所から、が感じた楽しさ、悔しさ、悲しさ、嬉しさ、全ての感情が、ことあるごとに感じ取れた。新しい仲間に出会えたときの喜び、仲間だった人が死んでしまう辛さ、誰かを死なせたくないと思う強い気持ち。


「…ああ、そうだ。ちゃん、図々しくて悪いのだけれど、伝言を頼まれてくれませんか?」


急に思い出したらしく、明永は言った。


「伝言?」


「ええ、…申公豹に」


明永の口から出てきた意外な人物の名前に、は目を丸くする。


「約束を守ってくれてありがとう、と…伝えて下さい。そう言えば、分かるはずですから」


何なのだろうと思ったが、とりあえず釈然としないながらも、は明永に頷いた。


「…それと一つだけ、ちゃんに言っておきたいことがあるの」


言われ、は明永を見つめた。


「原始さまのことです。あの人は、確かに私の力を、対女カのために残したいと思っていました。そしてそれを実現させ、あなたの体の中に入れた」


小さく、は頷く。


「でもね、あの人は絶対に、ちゃん自身を大切に思っていないわけではないはずですよ」


明永の言葉に、は彼女の言わんとすることがなんとなく分かった。


「…いいんです、明永さん。別に、原始天尊さまから私、どう思われてようが、」


しかし明永は、の言葉を制した。そして、優しく微笑む。


「封神計画のサポート役として、人間界に行くよう命ぜられたときのこと、覚えていますか?」


こくりとは頷いた。


「あのとき…意図的に原始さまから、太公望と別々に人間界に送られたように感じましたよね?」


訊ねられ、当時のことを思い出し、は再び頷く。そういえば、確かにあのときは疑問に思った。封神計画の実行者である太公望のサポート役という任に就くのなら、共に送り出せばいいのに、と思ったのだ。あのとき、理由を聞いても原始天尊は答えてくれなかった。


「…あれがどうしてだったのか、私には分かりますよ」


少しおかしそうに言う明永に、「どうしてだったんですか?」とは訊ねた。


「あなたが、大切だったからですよ」


微笑んでそう言った明永に、はますます首を傾げた。


「今でこそあなたと王奕…、太公望の周りには、沢山の仲間がいますが、計画始動当初は、計画加担者と言えば太公望とあなただけでしたね」


確かにそうだった。太公望と合流してからは、数日間は四不象も入れて三人だけで行動していた。


「封神計画は、最初のうちの表立った目的は「妲己を倒し人間界を平和にすること」でした。まさか計画遂行者の太公望が金鰲の王天君と同一人物で、実は始祖というひとであり、封神計画の本当の狙いは、妲己の後ろにいる黒幕の女カを倒すために企てられたものだとは誰も思わないでしょう」


それはその通りだろう。実際、その計画に荷担していたは何も知らなかったし、妲己だってまさか太公望と王天君が始祖の一人だなんて気付くことはなかったはずだ。


「けれど、ちゃんはそうではありません。偶然とはいえ、私が人間界で付けられたのと同じ名を持ち、しかも生前に私が使っていた宝貝を持って、封神計画のサポート役という大役に就いているのですから」


妲己が不審に思わないはずはない。聞くと、妲己は明永仙姑の存在も、現在が持っているこのという宝貝も知っているはずだという。趙公明に捕らえられる前に妲己が、何故かに近付き、この宝貝にそっと触れたのを思い出した。そうか、妲己は確かにこの宝貝を知っているようだった。


「妲己は、何かしらの方法で明永仙姑という仙女が生き返ったと、思うかもしれません。しかし、まさか妲己を倒すためだけに、原始天尊がそのようなことをするとは思えない。とすれば、自然とその考えは女カへ向く」


仙人界は何かを企んでいる。女カという存在に気付き、それを妲己ごとどうにかしようと考えているのではないか。それが封神計画。頭の回転の速い妲己は、きっとその考えにすぐに行き着く。


「そうなると、まず危ないのはあなた、ちゃんですね。危険な芽は早めに摘んでおこうと妲己が考えないとも限らない。人間界に下りてすぐに、まだ味方も少なく、太公望もあなたもそれほど力を備えていない状況で、あなたは殺されてしまうかもしれない」


「で、でも…もし本当に原始天尊さまがそういう考えでそうしたとして…、それは、私の中にある、あなたの魂魄が大切だったからじゃ…」


「いいえ。もしそのとき妲己に殺されたとして、封神されるのは、前面に出ていたあなたの魂魄だったはずです。表に出ていなかった私の魂魄は、ちゃんの体に残ることになる」


はっきりと言われ、はぞっと寒気がした。


「もし太公望と一緒にちゃんを送り出したら、計画の真の目的が早々にばれる可能性があるどころか、あなたが殺される危険性があった。だから、原始さまはあなたを太公望と一緒に送り出すことはせず、わざと途中まで別行動を取らせ、妲己があなたという存在に気付くことを遅らせたのです」


そして現には、仲間がある程度増えた後に初めて妲己と会うことになる。趙公明に捕らえられる数分前のことだ。


「つまり原始さまは、あなたに死んでほしくなかったから、あのときちゃんと太公望を、別々に人間界に送ったのです。辻褄が合うでしょう?」


躊躇いながらも、は頷いた。確かに辻褄は合うように思える。しかし、


「…本当に…そうなんでしょうか…?原始天尊さまは…」


自信がなかった。あのとき、明永仙姑の話をされたときの、突き放すような原始天尊の態度が頭から離れない。彼の目にはいつも、明永仙姑しか見えていなかったのではないかと。明永はの胸中を察して、笑みを崩さないまま言った。


「大丈夫、あなたはちゃんと…原始さまにとっての愛弟子の一人です。だって私は崑崙山にいたとき、原始さまと一緒にお饅頭を作ったり、胡麻団子を作ったりしたことは、一度だってないんですよ?」


少し羨ましいです、と明永は笑う。


「ここから外の様子が見えていたから、はっきり断言できます。原始さまは、あなたをちゃんと、あなたとしていつも見ていましたよ」


そう言うと、明永はぽんとの頭に手を置き、優しく撫でた。は、じわりと何故だか目の奥が熱くなるのを感じた。


本当は、とてもとても悲しかった。自分の存在理由が明永仙姑のためだけでしかないような言い方をされたとき、胸の辺りがぎゅっと重くなって苦しくなって、涙が出た。言いようのない悲しみに襲われた。
10歳で両親が殺され、崑崙山に登ってからは、実質原始天尊が親代わりのようなものだった。二番弟子という立場もあり、いつも傍にいることを許してくれていた。一番弟子である太公望も一緒に。突然家族を失ったにとって、一緒にお茶菓子を作ったり、修行を行ったりと、常に一緒にいるくらいの原始天尊と太公望は、新しい家族と言っても過言ではなかった。そんな原始天尊に、突然伝えられた事実と、自分を突き放すような言葉は、それまでの全てをぶち壊すくらいの威力があったのだ。それまでそこにあったものが、そっくりそのまま持って行かれてしまったような喪失感。


「原始さまも、きっと悩まれたに違いないわ。という二番弟子の中に、明永仙姑という昔の弟子の魂魄を入れてしまっていたのだから。後悔しても遅かった。いつか明永仙姑が目覚めるかもしれない。という存在は消えるかもしれない。それでも、このことは本人であるには伝えなければならない、と」


明永仙姑のことを話したとき、最後に原始天尊はに対して謝った。あれは本当に心から、に向けての言葉だったはずだ。明永は言った。


「そうでなければ、あんな謝罪の言葉は出てこないはずでしょう?大丈夫。あなたのような人に、何十年も自分の弟子として育てたちゃんに情がわかないほど、原始さまは薄情な人ではありませんよ。誓って、絶対に」


ゆっくりと、は頷いた。今度は、信じられるように思えた。


「…ありがとう、ございます…」


ぽたりと、手の甲に涙が落ちた。


「いいえ…お礼を言うのはこちらの方ですよ」


ふふ、と明永は笑う。


「…今までここに、あなたの中に住まわせてくれて、ありがとう。あなたを介して見ることの出来た外の出来事や風景、世界は、私が生きていた時に見ていたものとは全く別のものでした。とても楽しかった」


は顔を上げる。部屋の中が、段々白さを増していっているような気がした。


「私は、もう充分に生きました」


腕を伸ばし、ぎゅっと、明永はを抱き締めた。明永は死んだ人のはずなのに、とても温かかった。そのことがなんだかとても不思議に思えて、はぼんやりと考えていた。


ちゃん、あなたに、私の持っている力の全てをあげます。私はここを出ていきますから」


抱き締められたまま、はぱちぱちと瞬いた。涙が一筋、頬を伝った。


「今まで本当にごめんなさい。それと、沢山ありがとう。私の力を必要だと…少しでも、思ってくれて、ありがとう」


部屋中に、真っ白い光が溢れた。


「大丈夫、あなたは死にません。生きて、そして、大切な…大好きな人を守って。あなたにはそれが出来る」


強い風が吹きつけた。は思わず目を瞑る。その瞬間、今の今まですぐそばにあったはずの温もりがふっと消えた気がして、は目を開けた。すると、部屋中に溢れていた真っ白い光が小さな光の粒になり、きらきら輝きながら上へ上っていくのが見えた。そして、真っ白い天井があったはずのそこには、高い高い青空が広がっていた。


彼女は空へ溶けるように消えていった。沢山の風といっしょに。
そのとき、は全てが分かったような気がした。そうだ、今まで、誰よりも近いこの場所で、ずっと傍にいて守ってくれていたのは、他の誰でもなかった。いつも傍で見守ってくれていて、彼女はずっと、私とずっと一緒に、


「――明永さん」





























「――さん、さん!お師匠さま、さんが…!」


何かに引っ張られるように倒れ込んだを抱き留め、武吉は泣きそうな顔になりながら太公望を見上げた。は目を閉じたまま動かない。


「…息はしておる。気を失っておるだけのようだ」


しかし、急にどうしたというのだろう。あの、から放たれたように見えた白い光が関係しているのだろうか。あの光は一体何だったのか。


「武吉、スープーから落ちぬようしっかり掴まっておれ。スープーは、とりあえず女カの姿が見えたら先程のように逃げよ。気は抜くでないぞ、いま向こうがこちらの姿を確認できないのと同時に、こちらも向こうの姿は見えぬのだからな」


四不象は女カからの攻撃を、太公望からの指示で、それがすれすれの状態であろうが、とにかく全てかわしていた。爆発の衝撃で崩れる建物の粉塵で、女カはこちらの姿が見えなくなったらしい。一時的に攻撃の嵐は止んでいた。


は大丈夫なのか?一体どうしたんだよ?」


女カの姿をきょろきょろと探しながら、土煙に隠れたまま辺りの様子に警戒している四不象は、太公望に尋ねた。


「分からぬ…」


武吉はの体を太公望に預けると、女カの姿が見えないか、四不象と一緒に辺りを見回した。太公望はの顔を見下ろす。確かに息はしている。しかしその瞳は閉じられ、ぴくりとも動かない。何が原因でこうなってしまったのだろう?は女カの攻撃は、腕にかすり傷を負う程度のものしか受けていなかった。もしもあの白い光が原因だというのなら、あれは一体何だったのだろう。そして倒れる直前に、は確かに言った。名を呼び、ごめんなさい、と。


「どうした伏羲!その小娘が死んでしまったのかえ!」


真上から声が降ってきた。ハッと体を強張らせ、太公望と武吉は上空を見上げる。薄くなった粉塵の向こうに、四宝剣をこちらに向けた女カがいた。


「しまっ…スープー!」


太公望の声と同時に四不象は急いでその場から逃げる。しかし


「遅い!」


女カは四宝剣を振り上げた。咄嗟に太公望はを庇うように抱き締めた。一瞬、から言われた言葉が甦る。


なんで、私なんか庇ってるのよ!


庇わずに、放っておけるはずがない。の宝貝が、「守りの宝貝」であろうが何であろうが関係ない。死んでほしくない人を庇うのは、


「…ありがとう」


気付くと、いつの間にか背中に腕が回されていて、温かい優しい感触がした。同時に、すぐそこで声も。驚いて太公望は目を開けたが、するりと腕の中からは抜けだし、その場に立ち上がる。四宝剣から眩しいほどの光が向かってくる。は、宝貝を女カに向けた。


瞬間、何かがぶつかり合ったような大きな音と共に、強風が辺りを襲った。風は崩れかけていた建物を、女カが攻撃したときのようにがらがらと崩す。未だ立ちこめていた土煙は、その風によって周囲に吹き飛んだ。


「…なんじゃと?」


女カは呟いた。見ると、四不象たちは全くの無傷のようである。確かに四宝剣で攻撃を向けたはずなのに。まさかあの娘が、四宝剣の力を吹き飛ばした?


「…?」


宝貝を下ろしたものの、なおも女カを見上げているの名を、太公望は呼んだ。は、膝をついたままこちらを見上げる太公望に、視線を落とす。そして、にこりと笑った。


「――久しぶりですね、…王奕」


































      



2006,8,30