「勝者、楊ゼンちゃん」 静寂に包まれていた闘技場内に妲己の声が響いた。その声で観客たちははっと我に返ったようだった。六魂幡を纏い、太公望たちを見下ろしていた楊ゼンに対して、妖怪たちからブーイングの嵐が起きる。楊ゼンは全く気にせず、ステージがなくなって仕方なく闘技場の一番下に立っている太公望たちの元へ降りた。 「妲己さまー」 「負けっぱなしじゃないですかー」 妲己の座っている司会者席の近くの妖怪たちが非難めいた声を上げ始めた。だが妖怪たちを見下ろして、妲己は余裕たっぷりに笑った。 「ご静粛にん、大丈夫。次はわらわチームの目玉の登場よん」 その言葉に、ブーイングの嵐は止んで、わっと観客は沸いた。 「まったく、妲己のやつやりたい放題だのう…」 「それじゃいくわよん、第三ステージモード!」 妲己は手すりのボタンを押した。すると、ふっと太公望たちのいる場所に影が落ちた。見上げると、丸いステージがまた落ちてきていた。だがステージは一番下まで到着して太公望たちを押し潰してしまう前に、途中でその落下をやめて止まった。今までのステージもこうやって一定の場所で浮いていたのだろう。6人はステージに上がる。今度のステージは、木や草が生えた地面になっていた。 「さあ盛り上がってまいりました!わらわチーム第三のバトラーはこちらん。炎火系妖怪、朱子真ちゃんよ〜ん!」 わぁっと歓声が上がった。開いたままになっていた天井から、勢いよく何かが飛んできた。その何かはステージに足がつくかつかないかというところでぴたりと止まり、そのまま宙に浮いた。 「……犬?」 楊ゼンは呟いた。飛んできたそれは犬のような体と顔をしていて、だが背には翼が生えており、頭にも大きな羽根のようなものが一つ付いていた。頭の羽根は燃えているように赤く、体は胴体から後ろ足、尻尾にいくにつれて橙色になっていて、一つの炎のようだった。また、後ろ足と尻尾は本当に燃えているように形が定まっておらず、ちらちらと揺れている。 「さて、そちらは誰が出るのん?」 妲己が見下ろす。すかさずナタクが前に出ようとした。が、 「私が出る」 宝貝大会 三 ざり、と土が靴の裏で擦れる音をさせて、が前に出た。太公望と楊ゼンは同時に目を丸くした。 「どうしたのだ、えらく積極的ではないか」 太公望は本当に、意外なものを見たというように言った。その横で、次こそは、と出ようとしていたナタクがを睨みつける。 「こういう大会って、第二、第三って進んでいくにつれて相手のレベルも上がってくと思わない?だったら、私は早いうちに出ておいた方がいいんじゃないかと思って」 はナタクが口を開いて何かを言う前に素速く言葉を並べた。 「どうせ出なきゃならないんなら、あんまり強くない私がさっさと出といて、強いナタクは後に出てくる強ーい敵に当たった方がいいんじゃない?」 「…確かに、一理あるように思うが…」 「でしょ」 一応の同意を得て満足げに笑んだを見て、ナタクは不満そうな表情は崩さないものの諦めたように黙っていた。 「さんがやる気なのでしたら、ここはさんに任せてよろしいでしょう、師叔」 「…うぅむ、そうだのう」 いつになくやる気のあるらしいの様子に、楊ゼンは感心したらしくが出ることに賛成した。太公望も、特に反対する理由も見あたらないために頷いた。ステージの中央に向き直り、はこちらをじっと見据えている朱子真の真正面まで歩み寄った。 「おまえがか」 名乗ってもないのに自分の名を口に出され、は目を丸くする。声は、が歩み寄ると同時に地上に降りた朱子真のもので、高くもなく低くもない、聞き取りやすいものだった。 「幼少時に崑崙山に登り、崑崙では原始天尊の二番弟子で、今は封神計画のサポート役についている。宝貝は風を操るものだったか」 「…よく、知ってるのね」 犬に似てて少し可愛いなんて油断できるような相手じゃなさそうだ、とはこっそり思った。そんなの心を見透かしたように、ちらと朱子真が笑ったような気がした。 「私の名は朱子真。防御力はそこそこだが、攻撃力がまるでないような奴に当たるとは、つくづく私も運が悪い」 そう言って、これ見よがしに朱子真は大きな溜息をついた。は、むっと顔をしかめて黙り込む。こんなに真正面からあからさまに、力のことを言われたのは初めてかもしれない。場が場なだけに、仕方ないことかもしれないが。 「だが当たったものは仕方がないし、もはや変えられぬ」 ぱち、と一瞬、火がはぜるような音がしたかと思うと、朱子真を囲んで熱風が渦巻いた。熱い竜巻は拡散するように円を描きながら、朱子真を中心にして吹きつける熱風となり、闘技場内に立ちこめた。もちろん透明の厚い壁に守られた観客たちには、その温度は感じられなかった。 「ちょっ…あつ、熱いんだけど!」 空気が燃えるのではないかと思うくらいの熱風がを襲う。ステージ上の草木は燃えるのではないだろうか。は羽衣で思わず顔を覆った。太公望たちは闘技場内にいるということを思い出し、ちらとそちらの方を見ると、楊ゼンの六魂幡が覆っているのが見えた。六魂幡に守られているなら大丈夫だろう。 私もなんとかしないと。呟いて、羽衣を握る手に力を込めた。 「なあ、あいつ大丈夫なのか?」 張奎が眉根を寄せ、誰にというわけでもなく聞いた。六魂幡の中には、外に立ちこめているだろう熱風が届かない。の姿は動かず、じっとしていた。 「…大丈夫ですよ」 たぶん、と付け加えて、楊ゼンが小さく笑いながら言った。 そのとき、ふっと一瞬だけの周囲が白く光り、宝貝の形が杖に戻った。そしてその宝貝を、周りの空気を払うように一振りすると、強い風が巻き起こった。冬に吹く北風よりも冷たい風だった。 空気が元に戻った。朱子真によって熱された空気は、によって冷やされて、再び平常の温度になった。朱子真はを見据える。負けじとも見返した。 「……あなたは、風を使う妖怪…じゃ ない、わよね?」 先に口を開いたのはだった。の言葉に、朱子真は丸い瞳を瞬かせ、にやりと笑った。 「おまえは火竜を知っているか?」 朱子真の問いに、は首を傾げた。 「聞いたことだけなら」 見たことはない。とても遠く、とても高い火山の近くに住む竜だという知識だけは持っていた。 「火竜は常に炎と共にあり、この世にある炎全てを統べるものの媒介として存在している。この世の炎を統べるものは、炎そのものだからな」 朱子真の頭の上にある真っ赤な羽根がちらちらと揺れ、本物の炎がそこにあるように見えた。草木の緑と、地面の茶色の中で、朱子真の赤はひどく目立つ。 「火竜の傍には、その炎の力にあやかろうと、様々な者たちが寄ってくる」 炎の根元に最も近い火竜の、大きな力と同等のものを手に入れたいと願う者、ともすればその力を奪おうとやって来る命知らずな者。だが、火竜のそれにあやかることが出来る者はわずか一握りほどしかいない。以前に天化の手に渡った火竜縹を作った金鰲島の仙人は、その一握りの一人だろう。そして、その一握りにはいるためには、火竜を守護する者に認められなければならないという。 「私はその守護者の一人だよ、」 闘技場内の温度が、再び上がってきた。朱子真が力を使い始めたようだった。 「この頭についているものは、火竜の翼の欠片。私は火竜の炎の力を、一欠片だが手に入れた」 熱気が押し寄せた。は風で、その熱気から体を守った。そのとき、熱気に混じって小さな赤い塊が、の左側と背後に生えている木に飛んできた。赤い塊は木にぶつかると弾けたようにぱっと散り、次の瞬間には二本の木は炎に包まれていた。火竜の火種だ、とは思った。が二本の木から離れると、その木は音をたてながら燃え、崩れていった。 たった数秒で木を燃やせる程の炎を持った朱子真は、定位置から動かず、目だけがを追っていた。 「その、火竜の守護者が、どうしてこんなところにいるの?」 が問うと、朱子真は一瞬だけ表情を歪めたように見えた。だがすぐにそれは元の、なんの感情も表していない表情に戻る。 「私は、守護者として持っていた力の上に、火竜の落とした翼の欠片をもち、新しく大きな力を手にした。他の守護者たちにとって、私の行為は裏切りに近いものだったのだよ。私は守護者の任を降りた」 いら立っているような口調で朱子真は言った。そのとき、朱子真の表情がまた歪んだように、そしてそれは悲しみのせいだったように見えたため、は少し朱子真をかわいそうに思った。 しかし次に気付くと赤い塊がめがけて幾つも向かってきていた。驚いては風で弾くと、それらはの左右に散って、周囲の草木に炎となって襲いかかった。必然的には炎に囲まれることになる。木は火柱を上げて燃えさかるし、草はぱちぱちと大きなたき火のようにそこら中ではぜた。 「熱…!」 熱すぎる。この炎たちをどうにかしなくては。 は宝貝に力を込め、炎を斬りつけるように振った。風が起こり、炎は全て風にかき消される。かのように思えた。 「…うっわ、」 しかし炎の方が幾分勢力が強かった。の送った風によって酸素を多く取り込めた炎は、より勢いを増して、今まで燃えていなかったそこら中の草木を巻き込み燃え始めた。 「うわぁん失敗!ひどくなった!」 私のばか! 今までよりも強い炎に囲まれる形になったは悲鳴を上げた。 「……何をしておる!」 六魂幡の中から一部始終逃さず見ていた太公望は、顔をしかめた。の、まさかの思慮不足に、呆れたような声を思わず発していた。 「太公望師叔、炎を使う朱子真と、風を使うさんでは相性が最悪です」 それも、の方が圧倒的に不利である。 「なあ、あいつってこういう戦いに向いてないんじゃないか?あいつの宝貝って防御力だけだろ?」 「やはりオレが出る」 張奎が言い終わるか終わらないかのうちに、ナタクが太公望を押しのけて外に出ようとした。が、 「待て」 後ろから制止の声が掛かった。全員が振り返ると、腕を組み、じっと闘技場内を見つめている燃燈だった。燃燈は、その視線をメンバー全員に移す。 「あの道士の力はこの程度のものなのか?」 燃燈の、睨みつけるように圧倒される視線に、誰も答えなかった。ナタクだけはいつも通りの表情で、にらみ返すように燃燈を見ていたが。 くるりと太公望は燃燈から視線を外し、再び闘技場内を向いた。 「…師叔、」 「今は、を信じるのが良さそうだ」 そう言って、先程までが炎に囲まれていた場所に目をやる。そこには土煙と、燃えた草や葉っぱの灰を巻き上げた風だけが残っていた。 「…どこに行った?」 朱子真は、突如視界から消えたに、眉根を寄せて辺りを見回した。今の今までがいたはずのところには、灰がひらひらと舞い、土煙が上がっているだけ。その辺りの草木を燃やしていた火は、燃やすものがなくなってきて、ちらちらと小さくなっていた。さすがに土を伝って闘技場内全ての草木までは燃やせなかった。 ひゅう、と風を切る音がした。 「…上か!」 見上げると、が宝貝を振りかざし、朱子真の真上から重力に従い落ちてきていた。地面に着くのと同じくらいに、は宝貝を振り下ろす。突風が巻き起こり、闘技場内に残っている草木は風に煽られた。土煙が舞い上がる。観客は、わあっと声を上げた。 朱子真は直前に素速くその場を離れており、かすり傷一つ追わなかった。土煙が収まると、朱子真とは再び向かい合う。 「…どうして、」 はじっと朱子真を見つめながら口を開いた。 「あなたは、自分のことをあれこれ私に教えてくれるの?」 問いかけに、朱子真は笑う。 「自分を殺す者の素性も知らずに死ぬなど、これ以上の不名誉はなかろうと思ってな」 「……それは、どうも」 苦笑を浮かべ、は言った。 「あの者たちも頭が足らなかった。あの者たちが私の言うことに従っていれば、私はこのようなところで見せ物に参加せずとも良かったのだ」 「あの者たち?」 は首を傾げる。 「火竜の守護者たちだよ」 朱子真は楽しげに言った。 「私に従っていれば、死なずに済んだものを。虚け者たちめが」 は、自分の体が強張るのに気付いた。死んだ? 「…守護者たちが、死んだの?」 「なに、全てではないよ。守護者全員がいなくなればそれは大問題になるし、まず火竜が困るだろう。手加減してやったのだよ」 朱子真はにやりと笑う。その瞳も真っ赤であることに、は今気付いた。しかしその赤は、炎のそれとは別の赤に見えた。 「私は火竜の力を手に入れた。守護者の中で最も、火竜に近い者となれたのだ」 は、まるで世界で一番楽しいことを語るかのような朱子真を見て、全てを悟った。 きっと朱子真は、もっと大きな力を火竜に求めたに違いない。火竜の守護者たちは、それを必死で阻止しようとしたのだ。だが火竜の力の欠片を手に入れた朱子真の力は大きかった。 「私はあの者たちに言ったのだよ、私と共に大きな力を手にしよう、と。だがあの者たちは頷かなかった。それどころか私から力を奪おうとしたのだ」 きっと守護者たちは朱子真の力を恐れ、また力を手にした朱子真を恐れた。守護者として火竜の傍にいた者が、あらぬ方向へ向かってしまおうとしているのだと。 「結果的に私はここにいて、『女カ様』とやらの力によって今まで以上に大きな力を手にした」 あながち、あの者たちのしたことは間違いではなかったかもしれぬな。 朱子真は再び、楽しそうに笑った。 「…間違ってる」 の言葉に、朱子真から笑みが消えた。 「沢山の犠牲によって成り立つあなたの大きな力は、どれもこれも、あなた自身のものは一つもない」 守護者としての力はどこへ行ったの。元々あなたにあったはずの、火竜の傍にいるべきはずのあなたの力は。 「黙れ。小娘の戯れ言など、私には何の意味も持たぬ」 「あなたは、守護者としての役目を忘れたとき既に、自分自身を殺してる。大きな力に目が眩んで、なれるはずのないものに憧れて、仲間だけじゃなくって、自分まで殺したんだよ」 「黙れというのが聞こえぬか!」 火種ではなく、炎の塊が幾つも飛んできた。全てをよけると、炎の塊は草木だけでなく地面までも燃やし始めた。火竜の力だ。今までの炎以上の熱を持ったものであることが分かる。朱子真の体は、燃えさかる炎のように赤かった。朱子真の浮かんでいる真下の地面は真っ赤になっている。 「私は間違ってなどおらぬ」 どう発火したのか、朱子真の近くの地面から火柱がいくつも上がった。熱い。は手で口と鼻を覆った。熱気で息苦しい。宝貝を振って、なんとか自分の周りだけを熱気から守ったが、全体的な解決策とはならない。 「、おまえの宝貝は風を発生させ、操るのだったな。当たった相手が悪かった。私の炎には、おまえの風は好都合な道具の一つになる」 は黙りこくったまま朱子真を見据えていた。朱子真は笑った。その声と同時に、の周りに火柱が上がった。風に熱が混じる。 「闘技場と共に焼き尽くしてやろう」 朱子真は静かに言った。を囲む炎が勢いを増す。 「あの者たちも、今のおまえと同じように死んでいったよ」 朱子真の声が聞こえ、は目を見開いた。 「火竜の守護者という尊い者たちが死んだものと同じ炎で死ねることを誇りに思え」 次の瞬間、の周りにあったはずの炎が、一瞬で全てかき消えていた。残ったのは一陣の風だけ。その風に、燃える草木や炎が揺らめいた。そして、気付いたときには朱子真は横っ飛びに吹っ飛んでいた。朱子真のいた場所には、が宝貝を握りしめて立っていた。 「…小娘」 殴りつけられ、地面にたたきつけられた朱子真はゆるゆると起きあがると、を睨みつけた。どうやら頭を打ったらしく、くらくらした。 「あなたは、その尊い者たちを、殺したのね」 の背後では炎が音をたてていた。その熱風で、髪が風に吹かれたときと同じように小さく揺れる。 「おまえには、関係ないことだ!」 朱子真が発生させた炎が、闘技場内のあちこちに散らばった。そこら中の土を焼き、草を焼き、木を焼く。朱子真は今や本当に炎のように、その姿がゆらゆらと燃えていた。 「それでも、その力にも限界がある」 は周囲で燃える炎には見向きもせず、朱子真をじっと見つめたままだった。朱子真は、自分の姿のゆらゆらが段々小さくなっていくことに気付いた。 「限界などない!」 朱子真は叫ぶように言葉を荒らげ、炎はついに闘技場全体を埋め尽くすほどになった。様々な場所で燃えている。燃えていないところと言えば、の周囲と六魂幡のある場所のみではないだろうか。 「あなたは力を欲する余り、自分の仲間だった守護者を殺した」 火竜になぜ守護者がついているのか分かる。大きな力を手にしようとする得体の知れない者たちから火竜の力を守るためにいるのだ。しかし、守護者だった朱子真自身が、その力に目が眩んでしまった。そして、 「あなたは自分の力を過信しすぎた」 力だけではどうにもならないということを考えられなかった。力があるということと、それを使えるということは別ものだというのに。 は朱子真を、睨むような強い眼差しで見つめた。同時に、宝貝を握りしめる。ふわり、と柔らかい風が起こったかと思うと、気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうなほどの強い風が闘技場内で吹き荒れた。灰になった木々や草は空中に舞い上がり、観客席と闘技場内を隔てるバリアにいくつもいくつもぶつかった。 ようやく風が止んだとき、闘技場内であんなにも燃えさかっていた炎は、一つ残らず消えていた。風で全て消え去ってしまったのだ。朱子真も、炎みたいに燃えるような赤色を保っておらず、初めて闘技場内にその姿を見せたときと同じに戻っていた。もしかするとそのときより色が淡くなっているかもしれない。 朱子真は宙には浮いておらず、地面に崩れ落ちるように横たわっていた。そして、その喉元にはの宝貝が突きつけられていた。 「火は、その勢力以上の風によって消すことが出来るのよ。知ってたと思うけど」 は朱子真の喉元から宝貝を動かさず、ゆっくりと言った。 「…早く殺せばよかろう。おまえの勝ちだ」 朱子真の声は消え入るように小さかった。朱子真の言葉を聞き、は数秒そのまま静止していたかと思うと、ぱっと顔を上げて妲己を見上げた。 「妲己、朱子真は私の勝ちだと言った。ということは朱子真にはもう戦う気力は残ってない」 突如自分に投げかけられた言葉に些か驚き、妲己は素速く笑顔を作って頷いた。 「ええ、そのようねん」 何を言いたいのだろう、と闘技場内の誰もが思った。は一息ついて、再び口を開いた。 「でも私、もう戦意を喪失しました。両者お互いに戦意がないということは、引き分けですよね」 妲己を見上げたまま、は表情を変えずに言った。妲己は一瞬、驚いたように目を丸くしてを見つめた。 「……ええ、両者共に、戦う気がないのなら決着の付けようがないわねん。この勝負、引き分けよん」 闘技場内は、水を打ったように静かだった。ところどころで、なんでなんだという疑問の声や、やる気がないのかという不満の声が聞こえてきて初めて、闘技場内は元の活気を取り戻し始めた。 「一生、仲間を殺したという事実を背負って、生きていけばいい」 は朱子真の首から宝貝を離すとき、そう朱子真にだけ聞こえるように言った。離してすぐにはその場から立ち去ろうと朱子真に背を向けたので、朱子真の顔が、怒りと屈辱に歪んだのをは見なかった。 「さん!」 六魂幡を元の大きさに戻していた楊ゼンがいち早くに声をかけた。六魂幡の外に降りた太公望はに背を向けていたが、すぐに振り返る。の先程までの姿に、張奎はまだ呆けていた。は皆の元に早く戻ろうと駆け出していた。そのとき、の背後が赤く光ったのを、太公望を始め5人全員が見た。も気づき、なんだろうと後ろを振り返ろうとして足を止めてしまった。 まずい、と思ったときには既に太公望はの腕を掴み、引っ張っていた。誰よりもに近かったということも理由に挙がる。引っ張ったのと同時に、太公望は打神鞭を赤い光の方に向けていた。赤い光の正体は幾つもの炎で、めがけて飛んできていたのだ。太公望は風でそれらを切り裂き、風はに飛ばした朱子真本人にも当たった。 朱子真は最後、なんの声も上げなかった。ただ悔しそうにこちらを睨みつける二つの目は、やはり血の色をしていた。 「…おぬしは…最後の最後で気を抜きおって…」 溜息混じりに、太公望は顔をしかめてを見下ろした。 「…ご、…ごめんね?」 腕を掴まれたまま太公望を見上げ、は申し訳なさそうに言った。口は少しだけ笑っていたが。顔が近いなぁ、などと全く関係ないことを考えていたのだ。そんなことを言ったら絶対に怒ることは予想できたので、は絶対に言わなかった。 朱子真の体が淡い光に包まれ、魂魄体となって天井に上っていったとき、太公望は先程がしたのと同じように妲己を見上げた。観客席はどよめいていた。どれをどう非難して、どれに賛同すればいいのか分からなくなっていた。 「この宝貝大会はルールは無いと言ったな?つまり、不意打ちで殺そうとしたこともルールには問われぬし、それまで闘技場に上がっていなかった者が最後に敵を封神しようとも、ルール違反ということにはならぬ」 妲己はマイクを左手に持ったまま静かに太公望を見下ろしていた。 「…ええ、その通りよん。結果を言い直すわん。この勝負、太公望ちゃんチームの勝ち」 にっこりと妲己は微笑んだ。 戻 前 次 2006,8,6 |