崑崙山2は、仙道全員が落下地点に集まってから数日経って完成した。完成した日の次の夜明けまでに、女カや妲己と戦える自信のある者は崑崙山2に乗り込め、と太公望は全員に伝えた。夜明けと共に第三の島を目指して出発する。 「空が明るくなってきたっス」 「もうすぐ夜明けだね、そろそろエンジンを温めておくよ」 操縦席から太乙が言った。崑崙山2はコントロールが難しいため、太乙にしか操縦が出来ないらしい。いっぱいいっぱいになりながらも、なんとか頑張ってくれている。白んできた空は綺麗なグラデーションを作り出し、はぼうっとそれを見つめていた。 「さん、どうかしたっスか?」 四不象が、の顔を覗き込んだ。驚いては目を瞬かせた。 「な…なんで?」 「元気ないっス」 一瞬、の表情が凍りついたのを太公望は見逃さなかった。だが、それはやはり一瞬のうちだけで、すぐに笑顔になる。 「うーん、緊張してるのかも。ほら、歴史の道標なんていう大きい敵が突然出てきたから」 「そうっスよねぇ、ボクも驚いたっス。歴史の道標、なんて今までに聞いたこともなかったっスよ」 「突然そんなのが最大の敵だなんて言われてもねえ」 喋っている間、は四不象の方も太公望の方も見なかった。その目はずっと、空だけを見つめている。 「太公望師叔、さん」 「おう、楊ゼン」 明るくなってきた空から、哮天犬に乗り楊ゼンが飛んできた。 「僕は少し遅れます。二つのスーパー宝貝の所在がまだ掴めていないので。すぐに追いつくので先に行っててください。それと四不象、これをきみにあげるよ」 そう言って、楊ゼンは何かを四不象に投げてよこした。四不象はそれを受け取る。 「あ!復活の玉っス!」 四不象は嬉しそうに声を上げた。 「金鰲島のエンジンの残骸にあったんだ。きみが持つといいよ」 「ありがとうっス!なんか落ち着くっス!」 趙公明戦で使って以来ご無沙汰だった復活の玉が再び手に戻ってきて、四不象はにっこりと笑顔になった。楊ゼンも微笑む。 「それで、どうなのですか太公望師叔。勝算はあるのですか?」 「…さぁのう。だが全然負ける気がせんのだ」 太公望は空を見上げる。 「ただ、この戦いは勝ち負けにかかわらず、重大な何かをわしにもたらす気がする。運命的な何かをな」 真っ白な光が世界を照らす。夜が明けた。 眠れる光 崑崙山2が落下地点から出発して、何ヶ月経っただろうか。乗り込んだメンバーは、いつもと同じメンツが揃った。ただ、原始天尊だけは乗り込まずに残った。聞仲戦で力を使いすぎたらしい、出る幕はない、と自ら引き下がった。そんな原始天尊の代わりに、竜吉公主がスーパー宝貝盤古幡を受け継いできていた。公主は椅子に座り、窓から外の景色を眺めていた。は静かに竜吉公主に近付く。 「竜吉さん、体は大丈夫ですか?」 竜吉公主は、そこでようやくに気が付いて振り向いた。もともと竜吉公主は、仙人界の澄んだ空気の中でしか生きられない純血の仙女だった。そのため、崑崙山が落ちたときから彼女は体調を崩していた。人間界の空気が体に合わなかった。の言葉に、竜吉公主は微笑んだ。 「おぬしたちは同じことを聞くのじゃな」 「…おぬしたち?」 「おぬしと太公望じゃよ。太公望も、私のことを気遣ってくれた」 そう言って、にこりと笑う。竜吉公主は透き通るような真っ白い肌をしている。妲己も相当な美人だとは思うが、竜吉公主もまた、妲己とは違う儚い美しさを持っていた。その竜吉公主が笑うと、胸の辺りがとても温かくなる。笑っていなくてもきれいだけれど、やっぱり笑った方がきれいだ、とは思った。竜吉公主には、笑顔がとても似合うのだと思う。 「…お茶、淹れたんです」 「ありがとう」 がおずおずと差し出したお茶を、竜吉公主は笑顔で受け取る。もつられて、やんわりと笑った。机越しに竜吉公主の向かいに座って、自分用にも淹れておいたお茶をすする。 「やはりには笑顔が似合うな」 今の今まで竜吉公主に対してが思っていたことを突然言われ、は目を丸くした。が驚いたことに気付いて、竜吉公主は、ふふと小さく笑った。 「皆心配しておるぞ、に元気がない、と。おぬしが笑っておらぬと、こっちまで淋しくなるのじゃ」 「…ごめんなさい」 「謝るようなことではなかろうて。皆、のことが好きなのじゃよ。1人でどうにも出来ないときは誰かに頼るのも良かろう。そのための仲間であろう?」 竜吉公主は優しく微笑む。やはり竜吉公主の笑顔は温かかった。 「さーん!」 四不象が回廊の向こうから一直線に飛んできた。 「ご主人が呼んでるっス。そろそろ第三の島が見えてくるそうっスよ」 「分かった、ありがとう。竜吉さん、行ってきます」 竜吉公主が頷いたのを見て、は椅子から立ち上がる。 「」 四不象の背に乗ろうとしたを、竜吉公主は呼び止めた。が振り返ると、竜吉公主はこちらを向いて微笑んでいた。 「おぬしの淹れてくれたお茶、おいしかったよ。また淹れてくれるか?」 「はい」 笑顔では頷いた。の答えに、竜吉公主はにっこりする。そして、それでは、と告げてはその場から離れた。四不象の背中に乗る。 「四不象ちゃん、太公望は操縦席のところ?」 「そうっス。太乙さんと一緒っス」 竜吉公主と一緒にいた場所からは、空に面した回廊をぐるっと半周ほどしたところに操縦席はある。崑崙山より小さいとは言っても、崑崙山2もそれなりに大きいし広い。そんな崑崙山2に乗っている仙道たちも、出発当初こそは落ち着きがなく騒がしかったが、今ではそれなりに落ち着いて静かだった。 「ご主人ー!呼んできたっス!」 崑崙山2の正面、操縦席のある場所に着いた。太公望は進行方向を真っ直ぐに見つめていたが、四不象の声に気付くとこちらを向いた。 「おお、すまなかったのう呼び出して」 は首を左右に振る。 「もう着くの?」 「えーと、妲己島まではあと20qくらいだね。もう肉眼で見えるんじゃないかな」 操縦席から太乙が答えた。太乙の周りにはコードがぐるぐると巻いていて、画面も沢山並んでいる。太公望、、四不象は進行方向に目を向けた。 「あれが…妲己島?」 白い雲よりも向こうに、変わった形の島が浮かんでいるのが見えた。崑崙山2とその島との距離が、だんだん近付いていく。 「おいおい太乙、金鰲島のときのように、敵にも主砲があるやもしれぬぞ!」 「…いや、その心配はないよ。あそこに島は存在しない」」 太乙はいくつもの画面を見比べながら言い切った。 「……あるではないか」 「ないの!あれは目に見えるバリアだね。中にあるものを守っている薄いカラにすぎない。中には…えっと…空間の歪み、ワープゾーンがあるみたいだね」 「ワープゾーン…?」 「…そんなものがあるんだ」 「その中に入れば、どこかにある妲己島までワープ出来るんだろうね。とりあえず通天砲でバリアを壊すよ」 ぱちぱち、と太乙はいくつかボタンを押した。そして 「通天砲ー発射ー!」 崑崙山2の内部から出てきた通天砲に光が集まる。仙界大戦のときに見たことのある、あの主砲の光だった。光は集まると、一気に妲己島に向かって発射された。下の大きな川が、その衝撃で波打った。だが、それほどの衝撃を持った通天砲は妲己島に当たると鈍い音を発して、妲己島の表面を自ら避けるように滑っていった。弾かれたのだ。 「は、はじいた」 「なんと…」 通天砲すら効かないバリアが張ってあるのか。 「パワーが足りないのですよ」 突然、上から声が降ってきた。あの、言葉遣いだけは丁寧なのに、言葉の内容に嫌味やなんかが含まれている、あの声が。太公望、、四不象は反射的にそこを見上げる。 「申公豹!…と…」 申公豹はこちらを見下ろし、笑みをたたえていた。 「太上老君も連れてきました」 黒点虎の胴体に結びつけられているロープは、老子、というか怠惰スーツに続いていた。老子はロープで吊された状態でも眠っているようだった。遠目に見ても、ぴくりとも動かない。 「おぬし、何をしに来たのだ。どうせまた見ておるだけなのであろう?」 太公望は申公豹を睨む。 「いいえ、敵が女カとなれば話は別です」 申公豹はこちらに見向きもせず、宝貝・雷公鞭を取り出した。ぱし、と小さな電気が走った。 「ただし、私は誰の味方でもありません。あなた方とも馴れ合うつもりは毛頭ないことをお忘れなく」 申公豹が宝貝を真上に掲げると、大きな電気が音をたてて発生し始めた。電気は雷公鞭で一つに集まる。ただ、その電気の量が半端ではない。眩しい、とさえ思うほどだった。その電気は、全て一気に妲己島へ向かう。そして、轟音をたてて、ワープゾーンを守っているというカラを破壊した。大きな爆発が起きたときのような衝撃がかえってくる。通天砲などとは比べられないほどの力だった。 「こっ、殺す気か申公豹!」 衝撃風に飲まれても、申公豹はその表情を崩さなかった。 「さぁ行きましょう、黒点虎」 申公豹の向こう、妲己島が今の今まであったその場所に、見たこともない、真っ黒い歪んだものがあった。中心は真っ黒な穴のよう、その周りは歪んだ光が穴を囲むように渦巻いている。 「むー!あれがワープゾーンだ!申公豹に遅れをとるなー!」 ぶん、と太公望は右腕を挙げた。 「対抗心を燃やしてるっスねぇ…」 申公豹と老子の姿は真っ黒の中に、飲み込まれるように見えなくなった。崑崙山2もそれに続く。真っ黒な穴の中に突入した。 ワープゾーンの中はなんとも奇妙な居心地がした。全てがねじれるような、まるで何かによって引っ張られながら曲げられているような。気持ち悪い、が思った瞬間、そこら中を光が差した。正しく言うならば、崑崙山2が光の中に飛び出していた。ワープゾーンを抜けたのだ。ねじ曲げられる感覚も消える。はぱちぱちと瞬いた。 「…わ、ぁ」 思わず目を瞠る。澄んだ空に澄んだ空気、全てがきらきらと輝いているような景色が広がっていた。 「なんと…」 の隣で太公望も呟いた。 「きれいなとこっス!」 四不象も感嘆の声を上げる。真っ青な空に綺麗な海、豊かな自然の中、沢山の動物たちがそこかしこに見られた。ここまで目を奪われる景色は、今までに見たことがない。 「…ここに女カがおると言うのか?」 こんなに綺麗な場所に、自分たちの最後の敵である歴史の道標が。 「うっうわぁあ!」 突然、操縦席に座っていた太乙が叫び声を上げた。見ると、なぜか太乙は涙目になっている。 「たっ太公望!!私たちは来たことがないとこに来てるよ!」 「…何を当たり前な…おぬしついに、」 「私は正常だ!」 太乙は震えている。それが恐怖による震えだったのか、歓喜による震えだったのかは分からないが。 「ここは…宇宙かもしんない」 太公望、の動きが止まった。たっぷり数秒間、2人は太乙と見つめ合う。 「……宇宙?」 「…宇宙っていうと…」 空の? 「素っ晴らしいよ!すごいよ、これは!さっそく降りよう!今すぐ降りよう!」 既に太乙には、太公望の声もの声も届いていなかった。崑崙山2の高度がゆっくりと落ちていく。そして、適当な場所に着陸した。やはり、誰よりも先に崑崙山2から降りたのは太乙だった。崑崙山2の各所に散っていた仙道たちも、周りの景色を見ながら地に降りた。 「すごい!こんなに小型の天体だというのに、地球と変わらぬ重力!空気!こんなにハイなテクノロジーは初めてだ!」 太乙は降り立ったその場で、喜びの声を上げていた。きっと、その場に立っていられるだけで幸せなのだと思う。そこから動こうとしない。 「きっとこの地面の下には素晴らしい宝貝が詰まってるんだ…」 あまつさえ、地面に寝そべる始末だ。よほど嬉しいのだろう。 と、そのとき、なにか響くような音が聞こえてきた。地面が少し揺れている。ということは、この音は地面からか。何かがせり上がってくる音に聞こえた。瞬間、地面から飛び出してきたものが思い切り太乙をはね飛ばした。宙を飛んだ太乙は、また地面に戻ってくる。というか、地面に落ちる。 「うわ、太乙さん!」 「ハイテクにやられるなら本望…」 「アホかい!…にしても、これは…エレベーター?」 地面から出てきたのは、二つの物体。エレベーターのようだった。それぞれ、出入り口のところに「赤」「緑」という文字が入っている。 『あはん』 と、それを見計らったように、遠くに見える山の向こうが光った。それと同時に聞き覚えのある、あの声。そして、その光は段々と大きくなり、その中に映し出されている人物が徐々に下から押し出されるように上がってきた。何故かくるくると回りながら。 『ようこそ太公望ちゃん。こここそは女カ様の島…宇宙船・蓬莱島よぉん』 映像による巨大妲己が、山の向こうに登場した。華麗にポーズまで決めてくれた。 「おぅ妲己!戦いに来てやったぞ!」 太公望は宝貝を取り出す。その後ろでは武吉や天祥が、妲己の映像を、趙公明のパクリだなんだと騒いでいた。 『いやぁん、ここで戦うってゆうのん?この蓬莱島はみどり豊かな自然の宝庫ん。そして野生の動物たちとたわむれる妖精のようなわらわ。戦いでこの美しさを汚してもいいのん?』 妲己の周りには、野生のカラスが集まっていた。 「確かにここは美しいし、壊したくない気持ちはある。ただし、おぬしと女カがおらねばだがな!」 妲己は太公望の言葉に、にっこりと笑った。 『あはん、太公望ちゃんのイケズん。いいわん、そちらの選抜チーム7人は赤いエレベーターに、他に緑に乗るのよん』 妲己が言うと、エレベーターの扉が開き、中から階段が出てきた。 『こちらも精鋭を7人出すわん。それに勝てたらわらわと女カ様に合わせてあげる』 「…よかろう」 妲己の映像が薄くなっていく。 『じゃ、待ってるわん』 その言葉を最後に、妲己の姿は消えた。 「…太公望」 「めんどくせーことやってねぇで、この島ごとぶっ壊して女カを引っ張り出そうぜ!」 ナタク、雷震子が言った。敵はこの蓬莱島のどこかに必ずいるのだ。皆の意気が高まる。 「それはいかん。ここはまだ後々使い道がありそうだ」 太公望は首を振った。 「では、選抜チームを選ぼう」 「はいはーい!あたし立候補!」 元気よく蝉玉が手を挙げる。が、 「太公望、ナタク、雲霄三姉妹、。見たところ戦えるのはこの6人のみだな」 「…なんですって!」 「誰だ!んなこと言うやつは!」 一斉に、全員が声のした方に視線を向けた。特に蝉玉と雷震子が。全員のいる場所から少し離れた丘の上に、黒衣に身を包んだ人物が立っていた。 「…って、マジで誰?」 「知らない」 見たことがない、というか心当たりがない。周りにいる仙道たちも知らないらしかった。 「仲間じゃねぇなら敵だな!死ねうおりゃあ!」 雷震子が宝貝で竜巻を作り出し、その人物めがけて放った。 「疾っ!」 だがその竜巻は、一瞬で無となった。竜巻を向けられたその人が、掌のみで竜巻を消し去ったのだ。衝撃で、地面はえぐれている。 「なにぃ!?」 「掌底で宝貝の竜巻を!」 すごい、と声が上がる。雷震子の竜巻も、それほど弱いはずではないのに。 「おのれの力量が分かったか?」 いつの間にか、その人物は雷震子の背後に回り込んでいた。 「ここから先は中途半端に強い戦力はいらない。女カはそんなに甘い敵ではないのだ。気に入らなければ私にかかってくるがいい」 その人は、身に纏っていた黒衣を脱ぎ捨てた。燃えさかる炎のような髪がまず目に入る。十二仙の太乙と道行が、あっと驚きの声を上げた。 「…燃燈」 「生きていたのか」 道行と太乙がぽつりと呟いた。 「燃燈?」 は訊ねる。こくり、と太乙は頷いた。 「燃燈道人。昔崑崙十二仙でリーダーだった人だよ。死んだと思ってたんだけど…」 生きていた。とりあえず事情はよく分からないが、崑崙十二仙人のリーダーだったということと、先程の雷震子の竜巻を左手一つで消し去ったこと、それらを考えても相当な力を持っているのだろうということだけは分かった。 「いま私が言ったメンバーは早く赤に乗れ」 燃燈道人は淡々と喋る人だった。釈然としない面持ちで、太公望とナタクは燃燈に続く。ビーナスたちは辞退するのだという。なんでも、妻は夫の帰りを待つもの、なのだそうだ。と、燃燈の視線が突然に向いた。思わずは身構える。 「何をやっている。早く乗れ」 「え?」 「おまえの名も呼んだはずだ」 しっかり緑のエレベーターに乗ろうとしていたは、燃燈の思わぬ言葉に「私呼ばれましたっけ」などと、喋ったこともない李靖に訊ねてしまった。李靖は困ったように首を傾げたが。そのの行動に、燃燈は目に見えていらいらしていた。 「おまえはだろう?こっちだ」 は、燃燈のその言葉で、燃燈が何を言っているのかを一瞬で理解できた気がした。慌てて赤のエレベーターに駆け寄る。 「あの、燃燈さん…。私、ですけど…、でもは私の名前で、私には、その、まだ、私の力しか ないんです」 燃燈の後ろで、太公望が眉根を寄せたのをは横目で見た。 は、燃燈を見上げたまま動かない。燃燈はきっと、明永仙姑のことを言っている、明永仙姑のことを知っている人なんだ、そしてその明永仙姑の力が自分の中に見えているのかもしれない、そう思った。原始天尊が女カとの戦いのために魂魄を残したくらいの仙女なのだ、もし彼女がこの場にいれば選抜チームに選ばれるに決まっている。燃燈は、自分の中にいる明永仙姑の力を見ているのだ。しかし明永仙姑は目覚めていない、ここにいるのはなのだ。 「…早く乗れ」 燃燈は小さく息をついて、を促した。 「ね、燃燈さん!」 「だったら聞くが、おまえは何のためにここまで来たのだ?女カと戦うために来たのではないのか?」 真っ直ぐに、燃燈はを見下ろした。は言葉に詰まる。 「…それは…」 「私は、おまえの力を見て言っている。誰のでもなく、おまえのだ」 燃燈はそれ以上、何も言わなかった。そしてそれ以上、も何も返せなかった。は燃燈から視線を下ろし、唇を噛み締め、エレベーターの中に進んだ。 「…どうしたのだ?」 太公望が心配そうににそっと話しかけた。は、ゆっくりと頭を振る。太公望を見て、小さく笑顔も作った。 「…なんでもないよ」 言えない。言いたくなかった。自分の中に、知らない人の魂魄が入っているなんて。その人がいたから、自分はここにいるのだなんて。本当に必要とされているのは、「自分」ではなかった、なんて。言えなかった。口にして、認めてしまうのが怖かった。 戻 前 次 2006,2,8 |