魂魄は、封神台の方向へ飛んでいった。朝焼けは段々その色を薄くしてきており、白い雲と青空が見え始めていた。太陽も顔を出し、空は鮮やかなグラデーションを作りだしている。


「…


静かに、太公望はの名を呼ぶ。そして、抱き締めていた腕を緩め、そっとの体を離した。は俯いたままそれに従う。


「直に武王と楊ゼンらが到着する」


紂王との決着をつけるために。殷王朝から周王朝へと変わるとき。の目からはまだ涙が溢れていた。


「しっかりするのだ、


太公望はの頬を伝う涙を拭った。


「…しっかりするよ…しっかりするけど…!」


誰か、涙を止められる方法を知っている人がいるのなら教えてほしいと思った。涙で霞んだ視界に、眉根を寄せて表情を歪めた太公望が映る。


「…泣くな、と言っておるのではない」


太公望の声はの涙声とは違っていたが、弱く、消え入りそうなものだった。は太公望を見つめる。


「泣いて良い…泣いて良いから…」


そう言って、再び太公望はを抱き締めた。

























滅びと興国の日




























日は随分高く昇ってきて、空の青さもはっきりとしてきた。禁城内の一角、静けさが満ちており、何の音も聞こえない。は、天化の体を貫いていた剣を見つめたまま、そこに座り込んでいた。ただ、もう涙を流してはいなかった。紂王は天化に斬りつけられてその場に倒れたまま、空を見つめていた。


その静寂を破ったのは、遠くから聞こえてくる、馬が地を蹴りながら近付いてくる音だった。その馬に誰が乗っているのかは、考えずとも分かる。紂王はゆっくりと上半身を起こし、立ち上がった。馬の蹄の音はすぐ傍で止まる。


「太公望師叔!さん!」


楊ゼンがいち早く馬から降りる。武王と邑姜もその後に続いた。


「太公望師叔、天化くんは…」


駆け寄ろうとした楊ゼンを、武王が制した。言葉も途中で遮られる。太公望はその場に立ち上がった。の腕も掴み、一緒に立ち上がらせる。天化がこの場にいないこと、紂王の斬りつけられたあと、太公望との態度から、天化がどうなったのかということは、楊ゼンにも武王にも邑姜にも理解できた。


「武王、最後のときがきた」


武王を振り返り、太公望は弱く笑った。


「天化が残してくれた最後の見せ場だ。戦にケリをつけよ」


武王は、太公望の向こうにいる紂王を見る。青白い顔を俯かせ、斬られた箇所と服は血で赤く染まっていた。


「紂王…」


武王がぽつりと零した声に、紂王はゆるりと顔を上げた。


「おまえが…武王か…」


小さな息をついて、紂王はうっすらと笑った。自嘲するような笑みだった。


「そこの剣を持って予についてくるがよい」


地面に落ちている剣を示し、紂王はこちらに背を向ける。それは天化が紂王との対峙の時に使っていた剣で。警戒するよう、紂王から目を離さずに武王はその剣を持った。


「安心しろ、予にはもうなんの力も残っていない」


そう言って、紂王は歩き出した。武王もそれに続く。禁城の城壁の上に続く長い階段を紂王と武王は登った。太公望、、楊ゼン、邑姜もその後ろを追いかけるようにして登った。高い城壁の上、登るにつれて、城壁の向こう側にいるのであろう民衆のざわめきが聞こえてくる。何人ほど集まっているのだろうか。紂王と武王は城壁の下にいる民衆から見える位置まで、太公望たちはその2人よりも後ろで、そのときを待った。城壁の上に立った紂王と武王の姿を見つけ、集まっていた民衆のざわめきが大きくなった。そして、ぴたりと武王は紂王の喉元に向けて剣を突き出した。水を打ったようにざわめきが消える。


「…悪いな、最後に望みはねぇか」


武王の問いに、紂王は無言で首を横に振った。武王は剣を握りしめる。それから一呼吸ほど置いて、武王の剣は、紂王の命を奪った。一瞬の出来事だった。それまで支えていた糸が全て切れてしまったように、紂王の体はその場に崩れ落ちる。そして白く淡い光に包まれ、紂王の魂魄は封神台の方へ空高く飛んでいった。


「これで…殷はなくなった。周の勝利だ!」


武王は剣を掲げ、声を張り上げた。同時に、大きな歓声が沸き起こる。


「すごい歓声ですね」


「あの人を新しい王と認める、なによりの証拠です」


歓声はいつまでもその場に響いていた。太公望は大きく息をつくと、その場にある建物に続く階段の上に寝転がった。も、つられるようにそこに座った。


「それでは太公望師叔、僕はみんなに伝えてきます」


この歓声のおかげで、皆も状況把握は出来ているかもしれないが。だが、天化が封神されてしまったこと、紂王はちゃんと武王の手によって倒されたということ、詳細などはまだ知らないはずだから。「頼む」と言った太公望の言葉に、楊ゼンはすぐに城壁の階段を下りていった。邑姜も、全てを見届けたからと言って、楊ゼンのあとを追うように城壁から下りていった。さすがの邑姜も、緊張の糸が切れたらしく笑顔だった。残された太公望とは、民衆に向かって剣を掲げている武王の後ろ姿を見つめた。時折見える横顔は笑っていた。


「…終わったのう」


ぽつりと太公望は呟いた。太公望に、は頷く。


…、…大丈夫か?」


問われ、はぱちぱちと目を瞬かせた。太公望は上半身を起こし、の隣に座った。視線が交差する。


「…大丈夫だよ」


は微笑んだ。


「もう、平気。しっかり出来るよ」


出来てるでしょ、と言うの手を、太公望はそっと取った。は目を丸くして太公望を見つめる。しかしは、太公望のその行動の意図は訊ねない。振り払うことも、勿論しなかった。ただ、その手をゆっくりと握りかえした。「ありがとう」と言った声は、小さすぎて、掠れていて、聞こえなかったかもしれない。だが太公望は、手を握ったまま、に微笑みを返してくれた。布越しに伝わる、重ねられた体温が温かく、は目の奥が熱くなったことを悟られないよう正面を向いた。


































      



2005,12,18