「くそっ!」


紂王に掠りもしなかった莫邪の宝剣を、天化は腹立たしげに近くに転がっていた岩にぶつけた。岩は粉々に砕ける。


「スース!俺っちたちもすぐ紂王を追って朝歌へ行くさ!今トドメを刺さねぇと!」


だが天化の意見に、太公望は首を横に振った。


「ならぬ。朝歌へは武王と軍が最初に入らねば意味がない」


楊ゼンともそれに頷く。


「天化くん、太公望師叔の言う通りだよ。僕たち仙道が先に朝歌に入ったら、殷は僕たちが滅ぼしたことになってしまう。あくまでも武王が殷を滅ぼしたという事実が大切なんだ」


この戦いは、仙道も沢山関わってはいるが実際には人間界の戦いなのだから。殷と周の戦いで、だから朝歌に乗り込み、紂王を倒すのは武王でなければならない。天化はぐっと言葉に詰まる。そして、太公望たちから目を離した。


「太公望!殷の兵のことだがよ!」


武王が後ろから駆け寄る。


「やつらにゃもう戦闘意識はなさそうだし、とりあえず捕虜としてメンチ城で大人しくしてもらう事にしたぜ。殷兵の監視係としてうちの兵25万程つけて、残りの5万で朝歌に行こうと思うが良いか?朝歌にゃもう兵はいねぇだろうから5万でも…んだよそのツラぁ!」


ぺらぺらと次々に言葉を繋げていく武王を、太公望は神妙な面持ちで見つめていた。


「…キャラがえらく変わったのう…。おぬし…つい最近までアホ丸出しだったのに…」


「うるせー!」


どっと笑い声が上がった。はそっとその場から離れると、天化の傍に歩み寄る。


「…天化くん」


呼ばれ、天化はこちらに顔を向けた。は、呼んだは良いが、良い言葉が思い付かなかった。視線が泳ぐ。


「あの…」


言葉が続かない。の態度に天化は首を傾げる。


「…天化くんが、焦る気持ちも、分かるけど…あんまり根を、詰めすぎると…」


途切れ途切れに紡ぎ出したの言葉に、天化の表情は厳しくなった。そして、くるりとに背を向ける。


「…さんには…分からねぇさ」


そう吐き捨て、天化はその場から立ち去った。は追いかけることも出来ず、天化の後ろ姿を見送るしかなかった。

























朝焼け




























「…ねぇ、本当に来るのかな」


大きな岩を背に、はぽつりと呟いた。左隣には四不象、右隣には太公望。は太公望を見上げる。太公望は何も答えない。今は何時なのだろう。夜は更けて、東の空から昇ってきた月は、もう西の空にいる。


「予定通りに行けば、明日には周軍は朝歌に着くんだもの。…来ない可能性だって、あるよね?」


四不象は不安げな顔で、を見つめた。


「あやつの行動、気持ちには、おぬしも気付いておるであろう?」


太公望は、静かに、それだけをに返した。は口を閉じ、俯く。確かに気付いていた。だからここに、この場所に、太公望についてきた。けれど、この予想がどうか外れますようにと願う気持ちの方が強いのだ。朝歌を目の前に確認できるこの場所に、太公望、四不象、が来た理由はただ一つ。


不意に四不象が顔を上げた。太公望とも気付く。遠くから、この夜の静寂を乱す音が駆け寄ってくる。その音はどんどん迫ってきて、やがて、すぐ傍で止まった。月明かりの下、その音のもとである馬と、その馬に乗っていた人物が照らされた。向こうはまだこちらに気付いていない。その人物は、馬から下りると、ぽんぽんとその背を叩いて、そこから歩き出した。太公望が一歩、その人物へと歩み寄る。その、土と靴が擦れる音で、向こうもこちらに気付いた。


「おぅ天化!」


太公望はその場から声をかける。一瞬にして、天化の表情が曇った。


「遅かったのう、待ちくたびれたぞ」


「スース…」


「おぬしが何かしでかすであろう事は感づいておった。おぬしの傷、おぬしの想いは分かっておるつもりだからな」


太公望は天化を見据える。天化も、太公望とを見返した。


「だが、今勝手な行動を取るのであれば、おぬしはただの反逆者。見過ごすわけにはゆかぬ」


言いながら、太公望は天化に近付く。と四不象はその場から離れず、2人を見守る。太公望と天化の周りを、打神鞭の風が覆った。風の渦が、地面の小石を空中へと吹き上げた。空は、地上の様子とは正反対に、憎らしいほど晴れ、澄み渡っている。いくつもの星が瞬いていた。


「天化よ、考え直す最後のチャンスだ。周軍が朝歌に入る前に、紂王のところに行ってはならぬ!」


吹き荒れる風の音に紛れることなく、太公望の声は天化に届いた。


「仙道が紂王を倒したら人間の立場はどうなる?あくまで人間が紂王を倒さねば無意味なのだ!」


牧野の戦いでは、紂王は妲己のせいで、人間とはかけ離れた力を使った。だが今はもう、いつもの紂王、人間の姿に戻っている。


「スース…分かってくれよスース!あんたが今まで新しい人間界をつくるためにどんだけ苦労してきたか分かってるさ!でも…俺っちもうすぐ死ぬさ!」


天化は莫邪の宝剣を勢いよく振った。表情がより一層険しいものになったのは、気のせいではない。「死」という言葉に、は体を硬くした。


「このまま体中の血が流れて死ぬのは駄目だ!戦って何かを残して死にてぇんだよ!」


太公望は眉根を寄せる。そして、首を左右に振った。


「死に急ぐな天化、適切な処置を施せばもっと長く生きられる!雲中子らが懸命に研究中だ!」


科学や生物の分野に長けた雲中子と太乙が、仙人界から降りてきている今も尚、天化の傷口から流れ続ける血について、研究と、治療法について研究を続けている。


「仙界大戦の最初の日、だけが先に仙人界に帰っておったのを覚えておるか?あれは、天化の傷について、いち早く治療が出来るよう雲中子のもとへ伝えに行っておったのだぞ」


突如出された自分の名に、は顔を上げる。天化も驚いて、に視線を向けた。天化との視線が交差する。四不象もそのことについては初耳で、を見上げた。


「天化、おぬしはや皆の気遣い、気持ちを踏みにじろうとしておるのだ」


天化は、太公望とから視線を逸らす。


「んな…勝手なこと、言われたってよぉ…」


小さな声で、そう呟くのが聞こえた。


「それでも…俺っちは行くさ。たとえあんたと戦っても!」


天化は地を蹴る。宙に飛び上がり、宝貝を振りかざした。太公望は打神鞭を握りしめる。


「甘ったれるなよ天化!おぬしはわしに絶対、勝てぬ!」


勢いよく、打神鞭を天化に向けて振る。幾筋もの風が天化を襲った。周りの岩までも破壊するほどの、鋭い風だった。天化は吹き飛ばされ、太公望から離される。


「その程度でひるむな天化!わしにはまだ太極図もある!宝剣の光を消し去ってくれよう!」


きらきらと淡い光を放つ文字が、太公望の宝貝からこぼれ落ちるように溢れてきた。その文字は渦巻きながら、辺りを包み込もうとして、


「おやおや、仲間割れかよ?世も末だな」


突然、天化でも太公望でも、四不象でも勿論でもない声がその場に入ってきた。そして、天化の背後の風が奇妙に歪んだ。するすると、そこの風だけが別もののように渦巻く。全員の視線がそこに集まった。


「行かせてやりゃあ良いじゃねぇか。遅かれ早かれどうせ殷は滅ぶんだからよぉ」


その場に姿を現した人物に、4人は目を見開いた。


「王天君!」


そして一瞬にして、天化の体は、王天君の空間宝貝によって閉じこめられた。なんの抵抗も出来ぬまま、天化の体はその四角い画面のような宝貝ごと、すうと宙に消えた。


「天化くん!」


「おぬし、天化をどこへやった!」


王天君は笑みを浮かべたまま、太公望とを見下ろしていた。


「ククク…やつの望んでいた場所へだ。とろこでよぉ太公望。あんたのそのスーパー宝貝…興味深ぇなぁ、オレにも見せてくれよ」


王天君が言うやいなや、空に直線が現れた。その線はお互いに繋がりあうと、四角い箱のようになり、朝歌全体を囲んだ。王天君の宝貝・紅水陣だということは、すぐに理解できた。


「王天君、おぬし!」


「早く見せてくれよ。モタモタしてっと愛しの天化ちゃんが、さらに愛しの紂王さまをやっつけちまうぜ?しかももっと愛しの朝歌の人間が溶けちまってもいいのかな?」


王天君の不気味な笑い声が響く。紅水陣の中では、強い酸の雨が降り出していた。


「だまれ!」


太公望は大声で、その王天君の笑い声を断ち切るように叫んだ。


「太極図よ!紅水陣を解除せよ!」


文字が渦巻き、紅水陣はもろい硝子のように崩れた。


「クククク…よくできました。だが既にあいつは紂王んとこにご到着してるはずだぜ。もぉ間に合わねぇかもな。」


王天君は、現れたときと同じ、空間の渦の中へ消えていく。


「こうしておめぇの理想はもろくも崩れ去るってわけだ!ハハハ…ハハ、ハハハハ!」


王天君の声が木霊した。太公望は、溶けるようにして空に消えていく王天君を睨みつけた。は唇を噛み締め、太公望と同じように王天君を見据える。


「…あぁ、そうだ」


消え去る直前、王天君は突然、左手をこちらに伸ばした。なんだ、と思うより先に、先程天化が囲まれたものと同じ四角い空間宝貝が、を囲んでいた。


「…なんっ」


バン!とは、その空間宝貝を両手で叩いた。閉じこめられた、太公望と四不象との隔たり。


!」


太公望がこちらに手を伸ばしたのが見えた。一瞬の出来事に、硬直している四不象も見えた。


「お嬢様は一時預からせてもらうぜ」


そう言って、また笑う王天君の声も聞こえた。
そこで、下界とは切り離された。真っ暗闇になる。ふ、と浮遊感と、重力に従って落下する感覚を感じた。だがその感覚に声を上げるより前に、地に足が着いた。


「…何…?」


は周りを見回す。真っ暗闇かと思ったその場所は、薄暗い、狭くも広くもない部屋だった。ソファが一つに、天井から下がっている、カーテンなのだろうか、大きな布と、壁に掛かった額縁、カチ カチと時を刻んでいる置き時計。それなりにものはあるのだが、なんとも殺風景に思えた。言うなれば、の趣味の部屋ではない。


「ようこそお嬢様」


いつの間にか、背後には王天君が立っていた。全く気配がせず、は驚いてその場から飛び退いた。


「そんなに警戒しなさんなって。なにもあんたをこの場で殺そうとかってわけじゃねぇよ」


笑みを浮かべながら、王天君はソファに座った。はその場に立ったまま、王天君を見つめる。


「…何の、用なの?」


は宝貝を右手に握りしめたまま、王天君に問うた。王天君もを見返す。そして、一つ、大きな溜息をつくと、


「…あんた、仙人界に来て何年だ?」


は、ぱちぱちと瞬きした。そして首を傾げる。突然の、意図の掴めない質問には正直に言って拍子抜けした。


「……60と、少し…だけど…」


答えない理由も、嘘をつく理由もどこにもない。は正直に答えた。の答えに、再び王天君は溜息をつく。なんなんだ、とは王天君を凝視する。


「あんた、オレとどっかで会ったことないか?」


茶化しているとか、冗談で言っているとか、そういう風には見えなかった。真面目に、王天君はを見据えていた。は王天君をなおも見つめる。そして、は首を左右に振った。


「私は…仙界大戦が起きるまで、金鰲島に行ったことなかったし…」


沈黙が訪れる。カチ カチと秒針が進む音だけが、妙に耳に響いた。王天君は、今度は小さく息を吐いた。から一瞬だけ目を逸らすと、再び見返す。


「あんた、本当に70幾つしか生きてないのか?」


王天君の問いに、は頷く。やはり意図は分からない。


「嘘をつく理由、ないもの」


答えると、王天君は両膝に肘をついた。


「…ハ、それもそうだ」


そうして、いつもの、あの笑みを浮かべた王天君に戻る。は怪訝そうな表情を浮かべたまま、王天君の様子を伺った。王天君はソファに座ったまま、を見上げた。そして急に、先程を閉じこめたときと同じように、左手をに向けて突き出した。すると、の背後に、四角い、あの空間宝貝が現れた。人1人が収まりきるほどの空間。だが今回は誰も囲んでいないし、その四角い空間の中には何も見えない。


「折角ここまでお嬢様にはご足労頂いたんだ。特等席で観戦してもらうくらいのサービスはしないとな?」


すると、視界が開けるように、その空間の中に映像が映し出された。どこかの、広い場所だった。空は明るくなってきている。朝になったのだ。その広い場所で、誰かが戦っている。遠くのものを見ているように、音は小さくしか聞こえないが、金属と金属がぶつかる音が響いているのが分かった。真っ白い服を着た男性と、もう1人は


「…天化くん…!」


はその場にへたり込んだ。足から力が抜けた。両手でその空間に触る。硝子のように、透明の壁のように、向こう側に行くことは出来ない。くすくすと笑う王天君の笑い声が耳をつく。紂王と天化が戦っているのだ。そうだ、王天君は、天化を空間宝貝であの場から紂王のいる禁城まで移動させたのか。2人が戦っている広場の壁の一部が、天化の剣によって崩された。立っていた石碑も壊された。紂王は、人間業とは思えない動作で天化の剣をかわしている。


「止め、ないと」


声が震えた。天化の横腹から流れ落ち続けている真っ赤な血が、やけに目に入ってくる。どれだけ天化の血は流れただろうか。あとどれだけもつだろうか。そのとき、天化が、紂王を真正面から斬りつけた。紂王の剣が折れたのだ。紂王は崩れ落ちた。全身から血の気が引いた。寒い場所にいるわけでもないのに、手が震える。


「王天君……私、行かなきゃ…」


王天君は笑い続けている。ガン!とはその空間の隔たりを力一杯殴りつけた。


「早くここから出して!!」


王天君を振り返り、は睨んだ。だが王天君は笑みを崩すこともなく、一層深く笑むと


「…いいぜ」


パチンと指を鳴らした。四角い、禁城の光景を映していた空間が一瞬だけ歪む。そこに置いていたままのの手が、するりと向こう側に抜けた。それに気付くとは王天君を見ることもなく、そこを通り抜けて禁城のその広場に降り立った。太陽はまだその顔を出していない。ただ空は、朝焼けで真っ赤に染まっていた。


「天…」


天化の名を、は呼ぼうとした。すると、の視界には、倒れている紂王のその横に座り込んでいる天化、そしてもう1人、見知らぬ男が入ってきた。格好からして、殷の衛兵のようだ。その衛兵は、よろよろと相手の様子を伺いながら、そして恐らくは怯えながら、2人に近付いていく。その手には、衛兵がそれぞれ持たされているのだろう剣が1本、収まっていた。そして、が何かを言う間もなく、衛兵は天化の背後から、その剣を突き刺していた。刃物が鋭く、何かを犠牲にしたときの、あの音が響いた。剣は天化の体を貫き、その後ろで衛兵はがたがたと震えていた。


は、全身がその機能を忘れてしまったのだと思った。頭が回転してくれない、足が動いてくれない、息ができない。天化が、その口から血を吐き、前屈みに地面に腕をついて初めて、は全神経が戻ってきた気がした。


「天化くん!!」


考えるより先に、叫んでいた。悲鳴に近かった。そして、天化の元に駆け寄る。天化を刺した衛兵は、自分のしたことが恐ろしくなったのか、その場から逃げ出していた。は天化の傍らに座り込むと、天化の体を引き寄せた。剣が刺さっているそこからは、血が流れている。朝焼けと同じ色だと、はどうでもいいことを咄嗟に思った。


「天化く…天…」


ぼろぼろと涙が止めどなく溢れてきた。


「……さ…」


天化の掠れた声が耳に届く。どうしよう、どうしようとはそれだけを考えていた。だが頭の片隅では、もうどうしようもないということも、分かっていた。だから、天化を横から抱き締めることしか出来なかった。


「……、さん…俺っち、…わがまま言っちまって……」


は何度も何度も、首を左右に振った。


「お願い…お願いだから…もう、喋らないで…!ごめん、ごめんね…ごめんね…!」


そして、何度もごめんなさいと謝った。天化が紂王と戦いたがっていると、それが天化の望みであるのだと気付いていた。分かっていた。だが、太公望とはそれを頑なに止めようとし、これは、その結果なのだ。自分たちが招いてしまったもの。次々と流れ落ちる涙は止まらなかった。涙のせいで、天化の表情がよく見えなかった。そのとき、天化が掠れた小さな声で、途切れ途切れにの名を呼んだ。は天化の顔を見下ろす。


「俺っち…女兄弟、いなかっ…から、姉ちゃん……みたいで…楽し…」


涙で霞んでよく見えなかったが、天化は少しだけ、笑っているように見えた。そして溢れてくる涙の向こうで、天化は、また、途切れながらも言葉を紡ぎ出した。その言葉に、は何度も頷いた。


「天化!!」


後ろから、太公望の声が聞こえた。そして、走ってくる足音。だが、は振り向けなかった。太公望は、の真後ろまで来て、止まった。


「…天化?」


ぽつりと呟いた太公望の言葉が、空しく空に消えていく。太公望はの横へ来ると、が両手に抱き締めている天化を見、その場に膝をついた。そして、天化の首筋に手を当て、ぎゅっと目を瞑る。


「天化……すまぬ…すまぬ……」


絞り出すような声で、呟いた。それを待っていたかのように、天化の体は淡い光に包まれ始める。白く、柔らかいとも言える光が集まり、やがて眩しいものに変わると、その光は、と太公望の腕をすり抜け、空へ飛んでいった。天化の体を貫いていた剣が、乾いた音をたてて、その場に落ちた。その音さえも消え去ると、残ったのは静寂だけだった。風すらも吹いていない。


「…太公望…、…天化くん、が…」


そうして伝えたを、太公望は抱き締めた。途切れ途切れだったから、本当にそう言ったのかは分からない。けれどにはそう聞こえた。天化が最後に言った言葉。太公望もも、張りつめた表情より、笑った顔の方が好きだと。


それでも今は、笑顔を作ることは、見せることは、出来ないけれど。


































      



2005,12,05