「…紂王?」


は、眼下に見える奇妙な集団、その中央で、真っ白な服を着ている子どもを見つめた。


「あれが紂王?」


「まさか…あのお方はもう40を越えられておられるはず…」


殷軍、周軍、どちらの兵士も同じようにざわめきだした。殷の支配者である紂王が、こんな場所にいるはずが、来るはずがない。まして、いま目の前に現れたのは子どもだ。
だが、この「紂王」と名乗った子どもは、確かに天子の衣を身に纏っている。


「…予は…」


ぽつりと、その紂王は呟いた。呟いただけの声だったのに、ざわめきの中、それは全員の耳に届いた。


「…予は悲しい」


紂王は、言葉を続けると共に、表情を歪めた。両方の目からは涙が流れ落ちる。
ざわめきが止んだ。


「予の愛する四大諸侯に裏切られるなんて…」


大粒の涙は止めどなく溢れ、次々に流れ落ちる。
兵たちがまたさわさわと囁き始めた。今度はまた、今までのものとは違う動揺から。


「…紂王が、涙を…」


「もしかしておれ達はとんでもない間違いを…?」


兵士はお互い顔を見合わせる。沢山の動揺が辺りを駆けめぐっているのが、手に取るように伝わってきた。
しかしそんな兵士やその場にいる者たちの動揺をよそに、


「だが!」


紂王は急に顔を上げた。その目にはもう涙は溜まっていなかった。


「いかに可愛い臣下と言えども、法を犯せば裁かねばならぬ。判決を言い渡す!」


すたすたと、紂王は正面にいる兵たちの元へ歩み寄った。


「…全員んんん」


瞬間、その場にいた全員は目を見張った。紂王が纏う空気が一瞬にして変わったのだ。
表情も、今の今まで涙を流していたとは思えないほど、


「死刑ぇぇぇーーっ!!」


その場が声で飽和したのではないかと思った。
耳を劈く、もはや声ではないように思えるほどの、轟音だった。地面が割れ、人が吹っ飛ぶ。
あまりの衝撃に、危うくも四不象の背中から落ちてしまうところだった。咄嗟に太公望の服に掴まったお陰で、そうなることは避けられたが。


「妲己!おぬし紂王に何を…」


太公望は体勢を立て直し、妲己を睨む。が、太公望が視線を向けたそこには、既に妲己の姿はなかった。


「あはん。わらわはここで休ませてもらうわん」


妲己はいつの間にか、先程紂王が乗ってきた象の乗り物の上で、大きくて座り心地の大変良さそうな椅子に体を預けていた。


「ぬぅっ!」


「…いつの間に…」


豪華なその椅子と象と装飾品は、妲己にとてもよく似合っていた。


「くれぐれもお気を付けあそばせん。今の紂王さまはとーっても強いわよぉん」


くすくすと、妲己は楽しそうに続ける。


「何せ“失われた殷王家の力”が宿っているのだからん」


「失われた力…?」


太公望は荒い息のまま、今も宝貝を手にしていた。


「太公望師叔!」


割れて裂けた地面の上で、楊ゼンは三尖刀を手に太公望とを見上げていた。


「妲己はしばらくは動かないでしょう。紂王は僕たちに任せ、あなたもお休みください!」


太極図での疲労は、相当のものだと想像できる。だがいつになく厳しい面持ちで、太公望は頭を左右に振った。


「ならぬ!胡喜媚や王貴人がいつ動くともしれぬ!」


「これはこれは、スースらしくねぇ発言さ」


ざり、と足音が集まってくる。


「あんたは本来怠け者さ!」


「そうだぜ!紂王は俺たちに任せてテメーはダレてな!」


太公望を除いて、満場一致の意見。皆の表情を見渡して、太公望は小さく溜息をついた。


「…なるほど。そうだのう…では頼むぞ、みんな」


そう言って、宝貝を下ろした。


「じゃ、私も行ってくるね」


「くれぐれも気を抜くでないぞ」


「うん。大丈夫!」


言い残し、も皆の後に続いた。


























夢からの覚醒





























紂王の足取りは覚束無い。充血した赤い目、ふらふらとよろめきながら、こちらに向かってくる。


「みんな気を付けて!あの紂王は普通じゃない!」


「見りゃあ分かるわよ…」


楊ゼンの忠告に、蝉玉は深い息をついた。どこからどう見ても、異常そのものだった。


「とりあえず、特訓の成果を見せるわよ!」


蝉玉は五光石を握りしめ、構えた。


「大リーグエビ投げドリームボール28号っ!」


投げた五光石はいくつにも分裂し、向かってくる紂王に悉くぶち当たった。次に葦後が蝉玉の前に出る。


「よっしゃ、タイミングばっちし!去ねや紂王!」


動きを止めた紂王を宝貝で殴りつけた。衝撃で、地面が沈む。紂王の超音波のような声で崩れていた地面がより一層割れて、紂王の姿は土煙の向こうに隠れた。


「次は俺さまにやらせろぉ!」


雷震子が飛び出す。葦護はその場から素速く離れた。


「発雷!!」


真っ黒で重い雲が、空に立ちこめたかと思うと次の瞬間、目が眩むような稲妻が幾本も走った。それと共に鳴り響く雷鳴。
地面も最早、沢山の岩に溢れた、足場の悪い地形になり果てていた。


「う、うまいぞ3人とも!ちょっとやりすぎだけど…」


「当ったり前だぜ!さっさと発兄に国を渡せっちゅーに!」


もうもうと土煙が立ちこめる。その煙も上空へと上がっていく。雷雲は去り、青空が雲の合間から覗いていた。土煙の中に、影が見えた。紂王の姿。その体は、有り得ない方向に折れ曲がり、腕も、顔も、重力に従い垂れ下がっている。そして響いてくる嫌な音。何かが折れるような、擦れるような、乾いた音だった。それでもなお、紂王はぶつぶつと呟いていた。
すると突然、紂王の体の折れ曲がっている部分が全て、ぐるぐると動き、何事もなかったかのように元に戻った。笑顔で、蝉玉、葦護、雷震子を見据えた。3人は固まる。


「…いっ、いっ、…いやぁあああっ!」


蝉玉の絶叫が辺り一面に響いた。


「どけ役立たずども!オレがやる!」


3人の脇をナタクがすり抜けた。太公望の太極図で動けなくなっていたのが、太極図の発動を止めて時間が経ったために動けるようになったのだ。


「僕も出るよナタク。紂王には未確認な部分が多すぎる」


三尖刀を右手に、楊ゼンが前に出る。


「じゃあ私も出ます。サポートだけなら少しは役に立てるかもしれない」


2人の元へも駆け寄った。


「…勝手にしろ」


ナタクはふいとそっぽを向いた。そしてそのまま紂王を攻撃できる距離まで寄る。楊ゼンともナタクの後を追った。
紂王は不気味な笑顔のまま、こちらを強い視線で睨みつけている。


「行け、金磚!」


きらきらと光る、薄っぺらく四角い硝子のような光が大量にナタクの周りに溢れた。そしてそれは紂王へと向かって飛んでいく。金磚は紂王の周りに転がる岩を破壊し、紂王の体も斬りつけた。傷つけられた腕や足から血が流れる。紂王は、自分の手から流れ落ちる血を眺めた。


「血……血血血血ーっ!殷王朝600年の青き血がぁーっ!」


紂王は傷口から溢れてくる血をじっと見つめたまま叫んだ。するとその血が、固まって、引いていくのが見えた。傷口もどんどん塞がっていく。


「修復…?」


どうなっているんだとは目を凝らす。もう紂王には血が溢れてくる傷は一つもない。ただの人間にそんな真似が出来るはず無い。


「ナタク!射撃系ではいまいち手応えがない!僕とさんがが攻撃をする隙に接近戦に持ち込むんだ!」


楊ゼンの声を合図に、ナタクは金磚の発動をやめ、槍型の宝貝を両手に持つ。たん、とは地を蹴った。そして紂王の姿を捉えると、宝貝を勢いよく振った。大きな風の渦が紂王の周りを取り囲む。紂王は突如現れた風の壁に、動きを止めた。


「出でよ花狐貂!」


楊ゼンが変化の術で出した花狐貂が、風の渦に取り囲まれた紂王を、その風の渦ごと飲み込んだ。それを確認すると、楊ゼンとナタクは紂王を飲み込んだ花狐貂の元へ向かった。は地面に降り立ち、走って2人の後を追った。紂王が花狐貂の体を突き破り、外に出て来たのが見えた。すかさず楊ゼンとナタクが、紂王の両側から迫った。宝貝で挟み撃ちにする。と見えたのだが、紂王は両側の2人の宝貝を、素手で止めた。凄まじい音が響いた。人の手が宝貝を止めたような音ではない。金属と金属が当たったのではないかと思える音だった。


「…うっそ」


思わずはその光景に、目を見開いてぽつりと零した。楊ゼンとナタクの元へ急ぐ。突然、紂王が空高く飛び上がった。岩のような、硬い翼が背から生えていた。本当にどうなっているんだとは我が目を疑う。


「下々に飛べて天子たる予に飛べぬはずがない!」


その大きくて硬そうな翼を広げ、宙にいる紂王は高らかに笑いながら言った。


「戯れも、ここまでだ!虚け者!!」


紂王の大声がそこら中に響く。同時に紂王は拳を楊ゼンとナタクに向けた。その拳はいくつにも分裂したように、渦巻くようにして2人を襲った。慌てて、は宝貝を発動させる。鋭い風が起こり、楊ゼンとナタクを囲むようにして、一気に2人を紂王から遠ざけた。ただ、慌てたために勢いが良すぎて2人を背後の岩にぶつけてしまった。


「うっわ、ごめんなさい!」


は2人に駆け寄ろうとした。
だが2人はお構いなしに、両手を紂王に向けた。楊ゼンは変化の術でナタクの乾坤圏を素速く出すと、


「乾坤圏!!」


2人は同時に乾坤圏を紂王に向けて発動させる。しかし紂王は乾坤圏をいとも容易く受け止めた。あろうことかうち1つを粉々にまでして。


「脆弱なり周軍!殷の敵ではないわ!!」


紂王の拳は勢いを増した。もはや拳での攻撃とは思えない。衝撃はこの場だけに収まらず、後ろの岩山群にまで届いた。岩山が崩れる。は寸でのところで、防御の風で自分を含めその場にいた楊ゼン、ナタクを囲んで、崩された岩山から降ってくる岩をなんとか防いだ。降ってきた岩山の下、は宝貝を一振りしてそれらを除ける。3人を囲んでいた風が周りに飛び散るようにして吹き、がらがらと岩を退かした。


「…大丈夫ですか?楊ゼンさん、ナタク」


顔をしかめ、は訊ねる。この2人の攻撃で、ただの人間だったはずの紂王にここまで手こずるなんて、にわかには信じられないことなのだ。


「まぁ…なんとか」


楊ゼンは苦笑気味に応える。紂王のこの力は何なのか、まだ分からない。そのとき、岩と岩の擦れる音がして、ふっとその場が陰った。紂王が、崩れた岩山の、大きな塊を持ち上げていた。仙道でも持ち上げることの出来ない程の、大きな塊。


「死んでしまえー!」


紂王は腕を振り下ろし、その大きな岩は3人めがけて降ってくる。咄嗟の出来事であるといことと、まさかそんな大きなものが持ち上げられるなんて思っていなかったことから、とナタクは思わずその光景を凝視してしまっていた。
と、楊ゼンの姿が歪んだ。変化の術を使ったのだ。一瞬にして、武吉の姿に変わった。そして、降ってくる岩を両手で受け止める。だが武吉の天然道士としての筋力を使っても、その岩は大きくて重かった。これを簡単に持ち上げてしまった今の紂王はどうなっているのだろう。


武吉は受け止めた岩を紂王に投げ返す。紂王は両手で止めた。武吉は投げ返した岩を追いかけ、こちら側から岩を思い切り殴る。岩にはヒビが入り、砕けた。そしてそのまま、真正面にいた紂王を何発も殴りつけた。すると、武吉の攻撃を受けていた紂王の腕が、岩のように硬くなりはじめた。腕と言うよりは、ごつくて大きな鎧に変わっていく。がん、とその腕を殴った武吉の手からは血が流れた。武吉は攻撃をやめる。


「貴様よくも…天子に何十発も手をあげたなぁ!」


紂王は、鎧のようになった両腕を振り上げる。


「公開処刑!!」


先程と同じような、渦のように浴びせられる拳が、今度は一段と強くなった。武吉は、楊ゼンの姿に戻る。


「まさか…紂王は…」


楊ゼンは呟いた。紂王の腕はいよいよ歪な形に変わって行っている。


「どけ!次はオレだ!」


ナタクが前に出る。そして一瞬で紂王の目の前まで迫った。


「くらえ、そして死ね」


ナタクが発動させた宝貝は、九竜神火罩だった。二つで一組のそれは、紂王の上下でぴたりと止まると、稲妻のような攻撃を浴びせた。紂王は叫び声を上げる。九竜神火罩は攻撃を続けながら、紂王をその中に閉じこめた。静寂が訪れる。しかしその静寂もつかの間、だん!という大きな音で破られた。九竜神火罩を中から叩く音だ。
そして、九竜神火罩は、両側を盛大に突き破られて、破壊された。


「…仙界最硬の、九竜神火罩が…」


「…やはり紂王は戦うにつれて強くなっていくんだ」


楊ゼンはナタクの傍に歩み寄った。


「ナタク、キミは“湯王伝説”を知っているかい?」


「知るか」


ナタクは即答する。は楊ゼンを見つめた。“湯王伝説”、ずっと前に、原始天尊から教えてもらったことがあった。


「殷の初代国王の湯王は、鬼のような力を持った人間だったという伝説なんだ。弓に貫かれればその体は硬くなり、馬に追われればその馬よりも速く走ったという」


ナタクは楊ゼンを見る。“湯王伝説”が、今、自分たちが対峙している紂王と共通点があることに気が付いた。


「湯王はその力でかつての夏王国を滅ぼしたわけだけど、元に戻る術は知らなかった。際限なく増大し始めた彼の力と反比例して、彼の理性は失われていき、もう誰にも止められないと思われた」


九竜神火罩を突き破った紂王が、その姿を現した。もう、人間であると呼べそうな箇所は、頭だけしかない。他の部分は岩のようになっており、それでも紂王は笑っていた。


「それでどうなったんだ?」


ナタクが訊ねる。


「声が聞こえたんだ」


楊ゼンは、答えると同時に変化の術を使った。その姿は、ずっと前に会ったことのある姿へと変わる。


「自分の子どもの声が」


楊ゼンが変化したのは、紂王の子どもだった、今はもう封神されてここにはいない、殷郊。紂王の笑顔が消えた。


「…家族の声で元に戻ったのか?」


「うん。以後は良い王として殷を繁栄させたそうだよ」


殷郊は紂王から見える位置に立つ。もし妲己が、殷王家の中にある湯王の力を復活させているのだとしたら、対処法はこれしかない。殷郊は両手をあげる。


「父上、お願いです!元の父上に戻って下さい!」


紂王は、じっと瞬きもせずに殷郊を見つめていた。うまくいきそうだと、誰もが確信した。


「父上!」


殷郊は笑みを浮かべ、なおも紂王を見つめる。


「おまえは…」


紂王が呟いた。


「…はて、忘れたな…。誰だ?誰であったか…誰なのだ?」


殷郊は笑みを消す。


「…え?」


「誰だおまえー!?」


紂王の絶叫が轟く。九竜神火罩を投げ捨て、空高く飛び上がった。楊ゼンは元の姿に戻った。最後の望みも絶たれたのだ。


「…やはり彼は長い誘惑生活の中で、完全にいってしまっているね」


「子ではなく母に化けるべきだったな」


飛び上がっていた紂王が、地面に勢いよく落ちてきた。地面が揺れる。3人は地を離れ、宙に浮かんだ。紂王はやはり高笑いをしながら、追いかけてきた。


「おい!どうする?」


「うーん…家族パワーすら効かないとなると…もはや対処の仕様がないな…」


「戦えば戦うほど強くなるなら、私たち、紂王が強くなるのを手助けしてたってことでしょ?」


どうしたらいいのか。とりあえず、今は逃げるしかなさそうなので、3人は追ってくる紂王に追いつかれないように飛んだ。紂王はそこら中の岩山を壊し、崩し、土煙を巻き上げながら追ってくる。


「…あ、民家!」


は前方を指差した。山肌を利用して作られた集落がある。このままだとあの集落に正面衝突してしまう。


「ナタク、あの岩山だけを乾坤圏で切り離してくれないか?さんは風で取りこぼしがないようにサポートを、僕は武吉くんに変化して民家を岩山ごと運びます!」


楊ゼンの指示で、それぞれ配置に付く。追ってくる紂王に追いつかれないよう迅速に、まずナタクが乾坤圏で切り離した。が風でそれを囲む。そして武吉が両手でそれを受け取った。集落から沢山の悲鳴が聞こえてきた。


「仙人さま!」


「仙人さまだ!」


同時に、驚きの声も。


「まずいですね、もっと民家のない方へ紂王を引き寄せないと!」


「ち…ラチがあかん」


「仙人さま!前方の山にも人影が!」


運んでいる楊ゼンたちの近くにいた村人が、引きつった声で訴えた。3人は正面を見る。


「あれは…」


「天化くん!」


莫邪の宝剣を両手に、天化が細長い岩山の上に立っていた。


「あんたたちはそこの村人を守るさ」


「天化くん、やめるんだ!あの紂王は誰にも倒せない!」


天化の横を通り過ぎながら、楊ゼンは言った。


「そんなのやってみなきゃ分かんねぇさ」


天化はにっと笑う。そして、地を勢いよく蹴って、紂王の正面に出た。向かってくる紂王に正面から走り寄り、莫邪の宝剣を振りかざした。紂王の翼を斬りつける。岩のようだった翼は、莫邪の宝剣で切り落とされた。


「きっ貴様ぁあ!」


ぐらりと、翼を失った紂王の体が重力に従って地面に落ちた。大きな衝撃音とともに、土煙が上がる。


「貴様よくも…よくも天子を地に落としたな!よくも!!」


「うるさいさ!」


瞬間、紂王の手足も切り落とされた。手足というには違和感のある、大きな岩が転がる。


「あいつ、やはり強いな」


ナタクが呟いた。あの岩山にあった集落は、紂王と天化の戦いの影響がなさそうな場所まで移動させた。


「天子の手足がぁ!」


身動きが取れなくなった紂王は、その場に体を横たえるしかなかった。その頭に、天化は右足を乗せた。


「よぉ化け物!今その首を切り落としてやるさ!」


「…てってっ天子の頭を足げにー!?」


「あんたはもう天子じゃねぇ。誰もあんたを天子とは思ってねぇさ」


「ななな、なんだとぉお!?」


紂王は顔を歪め、その顔までも、硬い岩の鎧で覆いだした。天化は宝貝を振り下ろす。しかし宝貝は硬くなった紂王の鎧に弾かれた。


「バカを言うな虫けらが!予は民全員に愛されている!」


紂王の手足が再生した。ばしん、と両手で天化を挟む。天化の、横腹の傷口から血が流れ落ちてきたのが見えた。


「…あんたを愛する民はどこにいるさ…。オヤジも四大諸侯もあそこにいるあんたの兵も…みんなとっくにあんたを見捨ててるさ」


「何?」


紂王の顔から笑みが消える。そして、黄河の向こう側にいる沢山の兵たちを見つめた。


「うそだ!」


紂王は、天化を放り出した。翼も再生し、黄河の向こう側へと飛んで渡る。投げ出された天化は背中から地面に落ちた。


「天化くん!」


は天化に駆け寄った。楊ゼンとナタクは紂王の後を追う。


「天化くん、大丈夫?」


「へへ…こんなのかすり傷さ」


「そうじゃなくて…お腹の傷…」


の問いに、天化は答えなかった。そして「そんなことより」と言って立ち上がった。


「紂王追っかけるささん」


そして、が答えるよりも先に駆け出した。紂王は既に向こう岸に降り立っていた。兵たちが一目散に逃げ出しているのが見える。その兵たちの中の一人を、紂王は右手で掴み上げた。悲鳴が上がる。


「おまえ達なぜ周のやつらと戦わん!なぜやつらと馴れ合っているのだ!」


掴まえられた兵士は、がたがたと震え、言葉を出せなかった。


「答えろ!!」


紂王が迫る。


「うわぁああっ!」


兵士は震え上がり、咄嗟に、武器として手にしていた槍で紂王の頭を突いた。硬い岩山のような頭に、槍が突き刺さる。紂王は、ぴたりと動きを止めた。


「もうやめろ紂王。もう誰もオメーを王とは…いや、人とは認めちゃいねぇよ。周りを見てみな」


武王が紂王の傍へと寄る。そうして促した。紂王は辺りをきょろきょろと見回した。浴びせられているのは、非難と恐怖の視線だけ。周兵も、殷兵もだった。


「紂王…足下を見よ」


邑姜に支えられ、太公望も兵たちの最前列へ、紂王に声が届く場所まで来た。丁度そのとき、天化とも黄河を渡り終えたところだった。紂王は自分の足場を見る。兵が何人か、自分の足の下敷きになったらしく倒れていた。もう動かない。


「見えなかったのか?おぬしの民の姿が!」


太公望の言葉に、紂王は再び、周りを見渡す。そして、ぽとりと、右手で掴んでいた一人の兵を地面に落とした。同時に、ひび割れる音がして、紂王の、槍で突かれた箇所から亀裂が走る。


「いやだ…愛してくれ…みんな予を…」


消え入りそうな、か細い声だった。しかし、その声に答える者はいない。紂王は翼を動かし、宙へ浮き上がった。


「妲己、助けて…もう予にはおまえしか…妲己…」


ずっとこちらの様子を見ていた妲己。その、特等席とも思えた大きな椅子を乗せた象の上に、妲己の姿は見えなかった。妲己どころか、貴人と喜媚の姿さえも。いつの間に、どこへ行ったのか。


「妲己…どこへ…!?妲己…、妲己…!」


走った亀裂は、紂王の体全体に広がっていく。やがて、それはぼろぼろと崩れ始めた。岩山が崩れていくさまを見ているようだった。ただ今回の崩れ方は、先程まで紂王が崩してきた岩山の崩れ方とは違う、勢いのない、今の今まで意志を持っていたものがふつりと事切れて、一気に崩れていっているように見えた。そうして、崩れた岩の向こう、体を屈めて小さくなった、変わらず天子の衣をその身に纏っている紂王の姿があった。その体は、もう子どものものではない、元の大人の姿に戻っていた。


「紂王が…」


「元の大人の姿に…」


静寂でもなく、ざわめきでもない。目の前の光景に、皆同様を隠しきれないでいた。


「なにっぼーっとしてるさ!今こそ紂王の首を取るチャンスさ!」


その空気は、天化の声によって破られた。目を覚ましたように皆はっとした。天化は莫邪の宝剣を振りかざすと、


「去ねや紂王!」


力一杯、振り下ろした。

が、あと1秒もあれば紂王の首に達していたと思われる宝剣は、突如目の前に現れた四角い何かによって阻まれた。紂王の体は、その四角い、壁のようなものに囲まれる。その四角いものに、天化はもちろん、太公望も楊ゼンもも見覚えがあった。


「なっ」


「あれは…!」


そして、紂王が閉じこめられたその四角の手前に、また別の壁が現れた。その中にも、誰かがいる。だがその誰かの姿は見えなかった。


「こいつがここで死んじまうと歴史が変わっちまうんでな…。どうしても殺したいってんなら、朝歌までご足労願うぜ」


四角の中から聞こえてきたその声にも、聞き覚えがある。


「あんた…オヤジを殺したあいつさ!?」


ぶん、と天化は宝貝を振り上げる。紂王と、姿の見えないその人物を囲んでいる四角は、だんだん薄くなっていく。


「いいな、朝歌だぞ……」


そして、天化が宝貝を振り下ろしたときには、声の主と紂王は目の前から消えていた。天化の宝貝は、岩と地面を削っただけだった。


































      



2005,12,04