メンチ城を超えてから数週間、周軍は遂に黄河にたどり着いた。この黄河を越えれば、もう朝歌だ。決戦がすぐそこまで迫っている。


「いよいよですね…殷が滅ぶか、周が滅ぶか」


楊ゼンが静かに言った。は無言で頷く。珍しくは四不象に乗っておらず、地面の上、楊ゼンの隣にいた。太公望はいつものように四不象に乗っている。軍隊の最前列は黄河に足を入れ、渡り始めたところだった。


「…楊ゼン、、天化のことなのだが…」


会話が途切れたところで太公望は2人に視線を向ける。楊ゼンとも、太公望が言おうとすることに気付いた。太公望を見る。


「変な心配はいらねぇさ、スース」


3人の後ろから、天化は笑顔で、強い口調で言った。


「俺っちはやる気満々さ。そんな弱かねぇよ」


そう付け加えた。そして地を蹴り、太公望の後ろ、四不象の背中に飛び乗った。


「…スース」


少しだけ声のトーンを落として、天化は呟くように呼んだ。


「…なんだ?」


「妲己と紂王は俺っちがやる」


は、2人を背に乗せている四不象を見上げた。太公望は眉を顰める。


「妙な思いこみはやめよ 天化」


「だから心配はいらねーって」


天化は笑いながら紫煙を吐いた。真っ白なそれは、空に吸い込まれるように消える。


「確かに母ちゃんは紂王に殺され、親父は聞太師に殺された。だが俺っちが戦うのはそういう恨みからじゃねぇ。親父の志を継ぐのさ」


そうして笑顔のままで言う天化に、太公望は気付かれぬよう、小さく溜息をつく。


「…そうか。そこまで考えておるなら、何も言わぬが」


軍の最後尾も、黄河を渡り始めた。天化は四不象から降りる。楊ゼンは哮天犬を出すと、それに乗って宙に浮いた。も、天化と入れ替わりに四不象の背に乗る。武吉や蝉玉たちは、兵士と同じように自分たちの足で黄河を渡っていく。どこか楽しそうに走って渡っていた。


「…父の志を継ぐ…か」


楊ゼンの呟いた言葉は、空に消えた。


黄河を渡り終えると、周軍より先に到着していた南伯・東伯・北伯の軍が待っていた。4つの軍が合流し、合わせて25万ほどの軍隊になった。


「いよいよ決戦が始まるのね!」


蝉玉が拳を作って振り上げた。


「なぁ、俺らは何してりゃ良いんだ?」


葦護が訊ねる。周軍からほんの少し離れた場所に、仙道は待機していた。太公望は武王と共に南伯・東伯・北伯の元へ行っている。


「うーん…私たち仙道の出番はほとんど無いと思う。妲己が誘惑の術を使ってきても、それと対峙するのは太公望だし、殷軍と戦うのは勿論周軍たちだし」


「んだよ、オレらは用無しなのか?」


さも不満そうに、雷震子が言った。


「用無しっていうか、太公望が太極図を使ったら私たちは宝貝使えないでしょ。でも、万が一ってこともあるから、いつでも戦えるように待機しておけば良いよ」


それにこれは、本来なら人間同士の戦いだから。本当に、全くと言っていいほど仙道の出番は無いだろう。だが油断は出来ない。殷が今まで南伯・東伯・北伯に攻撃を仕掛けなかったことが気に掛かる。多人数で少人数を撃破するのは、兵法の中でも基本中の基本であると太公望は言っていた。だから、殷側の動きを警戒しなければならない、とも。
周・東伯・北伯・南伯合わせて25万、殷軍20万。わざわざ多人数と多人数を対峙させようとするそこに、何か考えがあるのだろうか。


「なんだって!?」


突然、武王の大声がこだました。は仙道の輪から離れ、声のした方に駆けた。


「どうした武王?」


とほぼ同時に、太公望も四不象に乗って武王の元に来たところだった。


「太公望!いま密偵から殷軍の情報が届いてよ」


武王の後ろには、膝を地につけ頭を下げている兵士が1人いた。


「い、殷軍はこの先30qの牧野の地に集結しております‥、そ、その数、70万…!」


密偵は、自分の言っていることすら信じられないと言うように、その声は震えていた。


「‥70万!?どこからそんな数の兵を…」


太公望とは驚いて目を見開いた。


「お、おそらくは朝歌の民や子供も混じっている様子…しかも不気味なことに、彼らの目には生気がなく…意志とは無関係に動かされているような…」


意志とは無関係に動かされている。それの原因も、太公望とには即座に分かった。妲己の誘惑の術に他ならない。70万もの人間を、意のまま操れるほどに強くなっているのだ。彼女の力は、日毎に増大していく。

























指導者と支配者



























「来ましたよ太公望師叔、殷軍70万人が」


平原の向こうから、溢れかえるような数の軍隊。当初優勢だと思っていた兵士の数も、今では圧倒的に不利な状況だ。


「どう出ますか?あなたの腕の見せ所ですよ」


「…うむ」


太公望は頷く。そして数秒、考え込むように俯くと、


「武王、周軍はおぬしに任せた!」


びし、と太公望は武王に人差し指を向けた。武王は目を丸くする。その隣で楊ゼンは顔をしかめた。


「おぬしが陣頭指揮をとり、天下に武王を知らしめよ。武王姫発は己の力量で周を興したのだと」


「太公望…」


武王の表情が曇った。


「待って下さい師叔、無謀です。ただでさえ数の上で圧倒的に不利なのですよ、武王にはまだ早すぎます」


しかし楊ゼンの言葉に、太公望は笑顔を向けた。その笑みに楊ゼンは妙なものを見るような顔になる。


「大丈夫だ、これがある」


太公望はそう言って笑顔のまま、懐から分厚い本を取り出した。


「太公望丸秘アイテム・悪の戦争教本ボリューム1!」


「…何それすごい分厚いんだけど」


は思わず呟いた。


「これはこの戦いのために昨日まとめた作戦だ。考え得る限りの状況に対応できるマニュアルが書いてある」


太公望は手早く言うと、その本を武王に渡した。どっしりと重いその本を受け取り、武王はそれを見つめる。


「5分で全て頭に入れよ」


「…5分!?」


慌てて武王はぱらぱらと頁をめくり始めた。


「それと


呼ばれ、は太公望を向く。


「おぬしはあそこにおる仙道たちをまとめ、適時指示を出してくれ」


天化や武吉たちの集まる場所を見、太公望はに言った。


「分かった」


こくりとは頷く。そしてすぐさま、は軍隊から少し外れた場所に集まる仙道の元へ駆け出す。に最初に気付いたのは蝉玉と土行孫だった。


ちゃん!戦争が始まるわよ!」


土行孫を抱きかかえ、蝉玉は声を荒げた。それにつられたように、武吉ら仙道が集まってくる。


「私たち仙道の出番はまだないよ。太公望はまず、妲己の誘惑の術を無効化させるつもりだから、太極図を使う。誘惑の術を解いて、人間同士の戦いをやめさせるの。そこでもし、妲己や胡喜媚、王貴人が動いたら私たち仙道の出番」


段取りよく、予定通り事が動けば、だけど。


「でもそう上手く事が運ぶ可能性は極めて低い。なんたって相手は妲己だから。状況に応じて私たちも戦えるように、みんな準備はしておいてほしい」


に、皆は頷いた。


さん…お師匠さま、大丈夫でしょうか…」


軍隊の上空、四不象に乗って空に浮いている太公望を見つめ、武吉は不安げな表情を浮かべていた。


「…大丈夫だよ、太公望は」


自分自身にも言い聞かせるように、は言った。太公望の前方、殷軍の真上、まだ距離のあるそこに、羽衣を身に纏いっている人物が同じように浮いていた。皆の視線がそこに集中する。遠いのに、威圧感すら感じられた。たちのいる軍から離れた場所からは、小さな影のようにしか見えない。太公望と四不象ですら小さく見える。


「妲己…」


天化が呟いた。


「あれが噂のかい」


まだその目で妲己を見たことの無かった葦護は、特に何の感慨もなさそうに、それだけ言った。そのとき、太公望が宝貝をかざしたのに気付いた。そして数秒おいて、太極図が発動した。周りの空気ががらりと変わる。
それと同時に周軍の前線、武王を含む数人が殷軍に向かっていった。太極図で誘惑の術を無効化したのを利用して、殷軍の説得にかかる作戦だ。


「おいオメーら、いい加減目ぇ醒ませ!妲己のために戦うなんざ…」


勢いよく向かっていったが、殷軍の前線、弓矢を使う兵士たちは次々に弓を射てくる。武王とその側近たちが慌てて逃げ帰っていくのが見えた。誘惑の術が切れた気配は全くない。


「ちょっとちょっと、どうなってんの?太極図効いてないんじゃない!」


遠くて詳しい状況は把握できないが、とりあえず殷軍に変化がないということだけは分かる。は自分の宝貝に目を落とした。羽衣形のこの宝貝、戦闘形の杖状に変えようとしても、今は変わらない。風も起こらないし、宙に浮ける気配もない。


「…周軍側は太極図が効いてる。殷軍側は妲己の誘惑の術で、太極図の無効空間が押し返されてるんだ」


事態を察知し、武王は最前にいる楊ゼンと共に、軍に指示を出していた。軍の形態が変わっていく。


「どうやらスースは妲己の誘惑の術が周の兵に及ばねぇようにねばってるみてぇさ」


周軍が武王の指示に従っているということは、すなわちそういうことになる。


「でも兵の数が超不利ね、あたしらも剣で戦いましょうよ!」


宝貝が使えない今、仙道は普通の人間より運動能力が優れているだけ、という状況だ。


「おいらは駄目だ、剣なんか使えねぇ」


「…宝貝人間なんか止まってるぜ」


ナタクはぴくりとも動けず、地面に寝転がっている状態。雷震子も、宝貝の大きな羽や鎧でほとんど動けないようだ。


「じゃあこうしよう。剣を使える人、動ける人は周軍の加勢、動けない人は動ける状態になるまでここで待機」


言い残し、は武吉や蝉玉、天化らと共に周軍まで走った。周軍は、倍以上の殷軍を、黄河まで追いつめているところだった。後ろから回り込む隊と、迫ってくる殷軍から横に避けてそのまま黄河へ包囲する隊。先程より戦闘に近付いたおかげで、状況もよく分かる。


「蝉玉ちゃんと葦護くんと武吉くんはそっちに、私と天化くんと天祥くんはこっち!」


「分かったわっ」


「了解です!」


どれだけの加勢が出来るかは分からないが、やらないよりは参加した方が良い。は太公望を見上げた。妲己の表情も、ここからだと見える。にっこりと、笑顔を浮かべていた。余裕があると取れる表情だった。と、不意にふわりと何か甘いような、良い香りがした。さぁっ、と嫌な感じがの背を伝う。


「‥まさか、」


さん、この匂い」


「天化くんと天祥くんはここにいて」


武王が危ない。この香りは一度嗅いだことがある。趙公明に拉致される少し前、初めて妲己にあったとき、すぐ傍でこの香りがした。太極図は、誘惑の術を押し返し切れていない。武王と楊ゼンはどこだろう。最前線にいるはずはない。おそらく軍隊の真ん中辺り、指示を通しやすい場所に――


いた。


が、


「――武王!」


が呼ぶ前に、楊ゼンが叫んでいた。は兵たちを押しのける。間に合わなかった。武王の背と腹からは、真っ赤な鮮血が流れ落ちていた。武王を刺したのは、周軍の兵士。周りの兵たちは、ゆらりと動いた。誰も武王が刺されたことに動揺していない。は2人に駆け寄り、地面に膝をついて武王の顔を覗き込んだ。武王の息は荒い。


さん、周兵にまで妲己の誘惑の術が…」


は素速く辺りを見回す。周兵も、殷兵と同様、生気のない無表情に変わっている。そしてふらふらと動きながら、3人に迫ってきた。は勢いよく立ち上がり、2人を庇うように、向かってくる周兵に剣を向けた。ぞろぞろと生気のない目が寄ってくる。どうしよう、どうしたら良いのだろう。周兵たちは同時に、持っている武器をの上で振りかざした。


が、急に迫ってきていた兵たちが何かに後ろから吹っ飛ばされた。突然の出来事に、は何が起こったのかすぐに理解できなかった。突っ込んできたのは、何頭もの馬とそれに乗る人間だった。


「…え、?」


操られていた兵たちが馬に突っ込まれ飛ばされたため、目の前の視界が開けた。何頭もの、何十頭もの馬がそこにはいた。それらは全てこちらに向かってくる。ある一頭を先頭にして。その先頭に立って向かってくる馬に乗っている人物には、見覚えがあった。は驚いて目を丸くした。その人物はと目が合うと、小さく礼をして、楊ゼンに支えられたままの武王に近付く。


「武王、私は羌族の頭領 呂邑姜。羌の騎兵5万、助太刀いたします」


思わずは太公望を見上げていた。羌族の頭領 呂邑姜。とすれば、それは太公望と血の繋がりもあるのでは、と咄嗟に考えがいったからだ。


「邑姜ちゃんが…羌族の頭領?」


「お知り合いですか?さん」


呟いたの声を、楊ゼンは捉えていた。楊ゼンには頷く。


「ついこの前会ったばかりだけど…老子、太上老君の養女だという子です」


別れ際、邑姜が言った言葉を思い出した。
「また近いうちにお会いすることになると思います」
邑姜はそう言った。あの言葉は、今日のことを指していたのか。そのとき、ゆるゆるとした動きで、邑姜たちに倒された周兵たちが起き上がり始めた。


「妲己さま…」


「妲己さま…」


うわごとのように兵士たちは呟いている。紛うことなく、誘惑の術にかかっている。その状況を見て取ると、邑姜は鋭い眼光を太公望に向けた。


「何をしているのですか太公望さん!太極図を持っていながら妲己の誘惑の術に押されるなんて、それでも羌の戦士ですか!」


「邑姜ちゃん…」


太公望の表情と顔色が、変わったように見えた。再び太極図を持つ手に力が入る。邑姜はの方を向くと、小さくにこりと笑った。も一つ頷いて、笑顔を返した。


「――太極図よ、全てを解き放て!」


太公望の声がその場に響き渡る。同時に、太極図からの陣もその場全体を覆うように広がった。今までの、甘ったるい香りがしていた空気が変わった。再び拮抗状態に戻る。周の兵士たちも、正気を取り戻し始めた。ざわめきだす。武王は力を込めると、その場に立ち上がった。


「ヤローども、体勢を立て直せ!まだ戦は終わっちゃいねぇ!」


羌族も戦いに加わり、状況はふりだしに戻った。


「太公望っ」


は地を蹴ると、四不象に飛び乗った。


…」


さん!」


太極図と誘惑の術の対峙が拮抗状態に戻ったと言っても、太公望はかなり無理をしているはずだ。


「大丈夫?」


「うむ、なんとかな」


言うと、太公望は一つ、息をついた。眼下では、正気を取り戻した周軍が、殷軍を黄河に追いつめ、ほとんど身動きが取れない状態に追い込んでいた。は、妲己に目を向ける。変わらず笑顔で、その表情からは何を考えているのか読み取ることは出来ない。


と、急にその妲己が両手を下ろした。羽衣はひらひらと風に舞っている。太公望は目を見張る。


「やーめたん」


妲己はそれだけ言うと、同じ笑顔のまま、こちらを見つめた。太極図とぶつかり合っていた力が消えた。殷軍を操っていた誘惑の術が無くなる。は再び眼下を見下ろした。やはり、術が切れた殷軍は目の前の周軍や自分たちの状況を掴めていない様子で、辺りを見回していた。周軍も、突然攻撃をやめた敵に動揺する。しん、と沈黙だけが残った。


「…なんなの、いきなり…?」


は呟いた。


「妲己!なぜ誘惑の術をやめた?」


太公望が問う。にっこりと妲己は微笑んだ。


「偉いわぁ太公望ちゃん。わらわをこんなギリギリポーズまで追いつめるなんてん」


体をくねらせながら、妲己はなおも笑う。


「だからさすがにちょっと疲れちゃったのん。こういうときは…」


そこで何故か、妲己はすう、と息を吸った。

そして



「いやぁん、太公望ちゃんがいじめる〜ん!紂王さま助けて〜ん!」



「なに!?」


「紂王…?」


するとその声が合図だったのだろうか、地上を見慣れない団体が歩いてきた。大きな布をはためかせる女性や、大きな象、そしてそれに乗っている人物。小さなパレードのように、動きに合わせて音楽も演奏されている。突然現れたわけの分からない団体に、殷軍も周軍もどよめいた。


「……何あれ」


太公望の後ろで、は顔をしかめた。女性がはためかせている布の向こうに、小さな人影が見えた。おそらく、その人物がこの団体の中心となっているのだろう、その人は何に惑わされることもなく、ゆっくりと、背筋をぴんと伸ばして殷軍と周軍の方に歩み寄る。


「予こそは支配者…」


声、姿形、どれをとってもその人物は


「天子 紂王なり」


あどけなさの残る子どもだった。


































      



2005,10,30