姫発に頼みに行ったところ、快く受け入れてくれた。仙道たちが住めるところを見つけるまでの間、いてくれて良いと言ってくれた。使われていない部屋などを、姫発たちの日常生活の妨げにはならないようにして。部屋ごとの人数の振り分けは様々で、部屋の大きさで違っていた。1人のところもあるし、2人でだったり、3人だったり。太公望やなど先日まで西岐城にいた者は、今まで使わせてもらっていた部屋を継続して借りることになった。


仙人界が落ちて、最初の夜。封神計画に携わるようになってから、人間界で寝食をすることは多くあった。特に最近は、この西岐城で。だから、今までと同じで、ここにいることは何も特異なことじゃないはずだった。しかしこんなに落ち着かないのは、やはり「帰る場所」がなくなったからなのだろうか。は深くため息をついた。崑崙山はなくなった。不安定な場所に立っているような感じがする。


「…帰る場所って…大切なんだなぁ…」


呟いて、窓から外を眺める。読んでいた書物を机に置くと、椅子から立ち上がった。そのまま窓に近付き、音をたてないように開ける。身を乗り出し、静かに外の地面に足を付いた。そして窓を閉めようとした。が、何故か閉まらない。


「…あれ」


おかしいな。思いながら、力を込めて押す。すると、閉まったことには閉まってくれた。


「わ、っ」


予想以上に勢いが付き、大きな音と共に。慌てては辺りを見回した。しん、と静まりかえっている。胸を撫で下ろすと、もう一度、窓がちゃんと閉まったことを確認し、はその場を離れた。


























月ノ輪の下




























何の気配もない。とても静かで、時折吹く風に揺られる木の葉が擦れる音がするだけ。空には満天の星。月も浮かんでいた。


落ちちゃって、壊れちゃったなぁ。


はゆっくりと、慣れ親しんだその岩肌を撫でた。崩れ落ちた崑崙山。金鰲島と共に地上の岩山と化してしまった。武吉が教えてくれたように、封神台は本当に無事だった。原始天尊の宝貝だから当然と言えば当然だろうが。淡い光を発しながら、静かに存在していた。封神台からは少し離れ、月がよく見える岩の上で、は膝を抱え、空を見上げた。


疲れてるはずなんだけどな。


何故か眠くならなかった。というよりも、眠りたくなかった。いま寝たら、きっと嫌な夢を見る。目を閉じると、それだけで沢山の光景が甦ってくるのだ。玉鼎が封神されたとき。十二仙の封神。普賢の最後の笑顔。もう嫌だ。何かを払うように、は頭を左右に振った。


「…?」


耳慣れた呼び声に、はっと顔を上げた。声のした方を振り返り、見下ろすと、こちらを見上げる太公望の姿があった。


「…どうしたの?」


こんな夜中に、こんな場所で。驚いて訊ねると、太公望は地を蹴りのいる場所と同じ高さに上ってきた。そして少し呆れ顔で


「どうしたって…それはこっちの台詞であろう。こんな時間に」


確かにそれもそうか。は頷く。


「私はちょっと眠くなかったから、…散歩?」


眠くないなんて、本当は嘘だけれど。微笑うに、太公望もつられたように笑ったが、何も言わなかった。そして黙ったまま、の隣に腰を下ろす。


「太公望はなんでここにいるの?」


太公望も散歩?は訊ねた。


「…窓を閉めるときあれだけ豪快な音を響かせておきながら」


大きなため息と共に太公望は言った。「あ」とは呟く。あの音が聞こえたのか。そういえば太公望のいる部屋は隣だった。つまり、隣室から勢いよく窓を閉める音が聞こえ、どうしたのかと覗いたところの姿がなかったというわけだ。でもよくここにいることが分かったなぁ、とは思った。


「月が、綺麗に出ておる」


「もうすぐ満月かな」


欠けた月。空で白く輝いている。


「そういえば昔、普賢と3人で、月見をしたことがあったのう」


びくりとの体が揺れた。それを隠すかのように、すぐには笑った。


「そうだっけね」


「確か原始天尊さまの目を盗んで仙桃を掻っ払ってのう、崑崙山のてっぺんに登って、どこから持ってきたのかゴマ団子まであったぞ」


太公望は笑って言った。


「そうだ、雪が降った日におぬしが風邪を引いて倒れたこともあったのう。次の日には完治しておったか。病み上がりだというのに普賢と一緒にえらいはしゃぎようで」


「太公望」


太公望の話を、は遮った。その声には、いつものような明るさは微塵も感じられない。重く、暗い印象だけだ。言った後に、自身もそれに気付いたらしく、はっと表情を歪ませた。


「…あ、いやあの…昔の話はね、この辺で良いかなって」


慌てて取り繕う。


「何故だ?」


変わらない声で、太公望は問うた。の視線が泳ぐ。


「…えー…と。…ほら、私たちは頑張って進んでいかなきゃでしょ。昔のことばっかり振り返ってても、ねぇ」


笑顔を作り、は言った。太公望の表情は変わらない。だが、小さく息をつくと


「…過去を受け入れられねば、前には進めぬ」


から笑顔が消える。そのまま太公望を見つめた。


、今まであったことから逃げても、何の解決にもならぬ。目を背け続けても、前には進めぬのだよ」


が、岩肌を撫でていた手をぎゅっと強く握りしめたのを太公望は見た。


「でも!」


次には、は声を張り上げていた。


「崑崙山はなくなったんだよ!普賢だって、もういないじゃない!」


頬を、雫が伝った。嫌だ。思い出すのが辛いなら、思い出さなければいい。思い出したくなんかなかった。は涙を拭う。


「…だが、


再び口を開けた太公望を、は睨むような目で見つめた。唇を噛み締める。


「ここにおっても、何も元には戻らぬ。おぬしがここで待っておっても、崑崙山も普賢も皆も、戻ってきてはくれぬのだ」


過ぎたものは、もう変えられないんだよ。


の目から、再び涙がこぼれ落ちた。


「…分、かってるよ…」


分かっている。分かっていた。何も変わらない。自分は、逃げているだけなのだ。けれど、どうしようもなかった。この虚無感を、悲しみを、一体どうすれば良いというのか。帰ってきてと叫んで届く声はない。声があっても、それが届く場所がない。


「それにだな、


太公望は、今度は深くため息をついた。


「思い出すのを拒むというのは、過去のことを顧みないのと同じであろう。つまり、普賢たちを忘れようとすることなのだぞ」


は顔を上げた。


初めて崑崙山に来たときのこと。太公望たちと会ったこと。道士になろうと決意したとき。3人で人間界にこっそり遊びに行ったこと。宝貝を貰えたときのこと。みんな、優しくて、楽しかった。居場所だった。


忘れる必要はない。忘れては駄目なのだ。忘れてしまったとき、それは相手がもう一度死ぬのと同じこと。



忘れないで


――そうだ。私は何をしていたのだろう。忘れて良い思い出なんて、どこにあるというのだろうか。


「…ごめんなさい…」


そんなの、1つもないのに。堰を切ったように、流れる涙は止まらなかった。拭っても拭っても後からこぼれ落ちてくる。俯けば一層涙は落ちたが、これ以上顔を上げていられなかった。


太公望はへと腕を伸ばす。その腕を彼女の背に回すと、そのまま抱き寄せた。そのまま放っておくことなど出来なかった。


「思い出さない、などと妙なことせずに、泣きたいときは泣けば良いだろうに」


今までよりも近いところからの太公望の声。は抱き締められたまま、頷いた。その通りだ。今までずっと、そうやってきたはずなのだから。


「…太公 望…」


は太公望の服を、ぎゅっと握った。


「…太公望、は…死なないって…」


約束してくれたよね?置いていかないって。趙公明と戦ったときに言ったこと。そして、言ってくれたこと。


「…死なぬよ」


もう一度、約束を。何よりも、親しい人がいなくなることを恐れる彼女に。失ったものが多すぎる。彼女も、自分も。
言って、太公望は腕の力を緩め、ゆっくりとを離した。手は、の両腕に添えられたまま。は再び涙を拭う。少し収まっていた。そして、太公望を見た。太公望も、を見返す。
お互い何も言わず、辺りはやはり、しんと静まりかえっていた。ただ分かるのは、お互いの距離が近いということ。照らす明かりは、月の光。


腕を掴む太公望の力が、強まった気がした。


と、そのとき耳に飛び込んできたのは、どこかに亀裂が入ったような、割れたような音。その不吉な音は続き、次には、がらがらと音をたてて、2人のいる岩場の一部が崩れ落ちた。2人はそこを凝視する。びっくりした。地上に落ちたとき、崩れるまではいかずともヒビでも入っていたのだろうか、それが今になって崩れたのだろうか。ぱらぱらと、小石などが後を追って下に落ちた。大きな音が響いて、その後はやはり元のような静けさが戻ってきた。
たっぷり数秒間、2人はその場で固まっていた。まるで止まっていた時が戻ってきたような感覚。


先に動いたのは太公望だった。ため息とも取れる息をつき、の腕から手を放した。そして立ち上がる。


「…そろそろ、戻るとするかのう」


独り言のように呟いた。浮かんだ月は、まだ沈まない。


「ほれ、戻るぞ」


そうして、左手を差し出した。は太公望を見上げる。


「もう…泣かずとも良いであろう?」


涙は止まっていた。もう流れていない。太公望の言葉に頷き、少し笑って、はその手を取った。


































      


これにて仙界大戦編、終了です。ありがとうございました。


2005,08,10