広く儚いこの世界に降り立てたのは、偶然だったのだろうか。 途切れた意識が、真っ白な部屋の中で再び舞い戻ってきたとき、それが始まりだった。 遠くから聞こえた気がした声は誰のものだろうか。 温かいここは、沢山の光に溢れて、沢山の優しさに溢れて、やがて空のように輝くのだ。 「さん!」 呼び止められ、は声のした方を振り向いた。耳慣れたその声の主は、ばさばさと翼を羽ばたかせながらのすぐ後ろまで飛んでくると、その場に着地した。 「白鶴。どうしたの?」 笑みを浮かべ、は首を傾げる。 「原始天尊さまがお呼びですよ」 ずっと傍にいて守ってくれていたのは、他の誰でもなかった。 この光を失わないように、この温かさを失わないように、ずっと。 もう一つの始まり 原始天尊から呼び出されるのは、直弟子であるにとってそんなに珍しいことではない。ただ、この暇な仙人界においてその原始天尊からの呼び出しというものは、例えばお茶の葉がなくなったから貰ってきてほしいとか、甘いものが食べたいからと言って何故か原始天尊と一緒に饅頭を作ることになったりと、大体がそういうどうでもいいことだった。 「原始天尊さま、今日は何の用事なのかな」 「さあ…詳細は私も言付かっていませんので」 白鶴は肩を竦める。まぁきっと、またどうでもいいことだろうな、とは白鶴と並んで玉虚宮までの廊下を進んだ。窓から差し込んでくる陽の光に照らされた廊下は明るい。 「同じ内容なのかは知りませんが、太公望師叔も原始天尊さまに呼ばれていましたよ」 は白鶴の言葉に、目を瞬かせて白鶴を見た。 「太公望も?」 問いに、白鶴は頷く。原始天尊と太公望と白鶴と私の4人で胡麻団子でも作る気だろうか?は考えを巡らせる。 「それでは、ここで待っていてください」 玉虚宮の大扉前で、2人は止まった。は眉根を寄せて白鶴を見つめる。 「…ここで?」 いつもならこの扉をそのまま開けて中に入るのだが。 「そういう指示だけは言付かっています」 「はぁ、そう」 が頷くと、白鶴は1人で扉を開け、玉虚宮に入っていった。 どういう用事なのか見当が付かなくなってきた。特にすることもなく、は扉に体を預けて寄り掛かる。扉を背に、の目の前をずっと続く廊下は長い。 ―――ピイィィッ! 空気を割るような、高く澄んだ音が聞こえた。遠くから、扉を隔てた向こう側、玉虚宮の中から。扉から背を離し、は振り向いて扉を見つめる。 何の音だろう? そっと扉に手をあてて押した。静かに扉は動いて、少しだけ開いたその隙間から中の様子を伺う。 玉虚宮の中、大扉と逆の、外に面したところに3つの人影が見えた。この玉虚宮の中、殺風景で物はほとんどないくせにとても広い部屋だから、が覗く扉と、3人がいる場所はけっこう離れている。それでも確認できる3人の姿が誰なのかはすぐに分かった。 原始天尊と白鶴、そしての兄弟子である太公望。なんの話をしているのかまでは、やはり聞こえない。ただ、太公望の手の中にある白い棒のようなものが気になった。 宝貝かな? 直弟子なのに未だに宝貝をもらえていなかったのは太公望だけだったと思う。その太公望が、ようやく宝貝を与えられたようだ。 そのとき、視界に新しい何かが飛び込んできた。空を飛ぶ白い動物。は目を丸くした。 「…霊獣!」 思わず表情が緩んだのに、は自分でも気付いた。白い、愛らしい顔をした霊獣だ。霊獣を見たことはほとんどない。徳の高い仙人が乗る場合が多いと教えられた。 もしかすると太公望はあれに乗るのだろうか?羨ましい。 が、いきなり、原始天尊は霊獣とそれに乗った太公望を追い払うように外に放り出した。 思わずは扉を閉めてしまった。 太公望に突然の宝貝、突然の霊獣、そしてどこかに追い払うようにして送られた様子。なんなのだろう?ここではないどこかに送られるのだとすれば、その心当たりは2つある。1つはもう一つの仙人界である金鰲島。だが太公望がわざわざ行かされる理由は思い付かない。とすれば、もう1つの、 「さん」 「わっ!」 急に扉が開けられ、そこから顔を出したのは白鶴だった。驚いてはその場から飛び退いてしまった。白鶴は怪訝そうな表情を浮かべる。 「原始天尊さまが入ってこいと」 そう言って扉を大きく開け、を促した。足を踏み入れると、靴音が玉虚宮の中に響く。原始天尊はがそこに来るのを待ち、その場に静かに佇んでいた。つい先程まで太公望がいたその場所。 とりあえず、胡麻団子を作るために呼ばれたわけではないことは分かった。 「二番弟子、参りました」 小さく一礼して告げる。原始天尊は頷いた。 「覗いておったな?」 ぎくり、は自分の顔が引きつったような気がした。の反応に、原始天尊は少し笑った。真っ白く長いひげのせいで見えにくいが、たぶん笑ったのだろうと思う。 「別にそのことを咎めたりなどせん。むしろ見ておったのなら、その方が話は早い」 「…はぁ」 は話が読めず、首を傾げる。 「太公望を人間界へと送った」 「……はぁ?」 は目を丸くした。ぽかん、と原始天尊を見つめる。 「意外か?」 「意外…と、言いますか…」 太公望が突如霊獣を与えられ、どこかに送り出された。それが金鰲島でないとすれば、という考えで浮かんだもう1つの候補は、もちろん人間界ではあった。の胸中を察したのか、原始天尊はまた笑った。 「人間界は荒れておる」 原始天尊は囁くように言った。 「金鰲出の仙女、妲己によってな。このままでは殷は確実に駄目になるであろう。…いや、最早立て直すことも出来ぬところにまできておるのかもしれぬ」 妲己のことは、も知っていた。金鰲島出身の強い仙女で、その力を使って歴代の権力者をたぶらかし、悪政の根元となっている。いま正に殷王朝は妲己の餌食となり、日に日に滅亡に近付いているように見えた。 「仙人界は地上とは離れた天空にある。このまま人間界を放っておいてもわしたちには何の影響もなかろう。しかし、その原因が仙道であるなら話は別じゃ。そこで仙人界はある計画を実行することにした」 「計画?」 原始天尊は頷いた。 「さよう。計画の名は封神計画」 「封神計画…」 は、原始天尊を見つめたまま復唱する。 「人間界におる妲己、またその側近である仙道全てを倒す計画じゃ」 妲己とその側近は300人ほどいるという。なるほど、とは呟いた。 「太公望は、この封神計画の実行者として人間界に送り出した」 「…は?」 「そして、おまえにも太公望のサポート役として封神計画に荷担してもらう」 「……ええ?」 「太公望は霊獣・四不象に乗って、もう朝歌を目指しておろう。追いかけるのじゃ」 「ちょっ、ちょっと待ってください!」 慌てては原始天尊を止めた。頭が混乱する。思考がまとまらない。 「…なんじゃ?」 「な、なんで私なんですか!?」 「おまえは太公望の妹弟子であろう」 「なんで太公望なんですか!?そ、そうだ、おかしいですよ、まだ仙道としては年齢的にも未熟なはずの太公望が、どうして計画実行者なんですか!」 「あやつが日頃の修行をさぼっておるからじゃ」 「……私ただのとばっちり!?」 何それどうなってんの、表情を歪めは頭を押さえた。 「…おまえも修行をサボりがちだからの、良い薬じゃ」 その言葉に、の動きが止まる。原始天尊はこれ見よがしに大きな溜息をついた。 「私は真面目に」 「白鶴が報告してくれておるぞ」 おまえたち2人はどうしてこうなのか、と原始天尊は呟く。 は原始天尊の隣に控えている白鶴を睨んだ。白鶴はぱっと目を逸らす。 「、人間界は好きか?」 原始天尊は表情を変えないまま、に問うた。不意をついた質問に、は目を丸くする。人間界は、仙人界に来るまで住んでいた場所だ。父や母と暮らしていた。 「…好きです」 人間界にいた時間は、決して多いものではなかった。それでも、人間界に生まれていなければ今の自分はここにいなかったのだし、家族のことは今でも好きだ。その人間界が、自分と同じ仙道によって壊されていくのは気持ちの良いものではない。しかもそれが妲己となれば。 原始天尊は、静かにを見つめる。自身が答えるのを待っているのだ。は小さく息をつく。 「……行きます。行きますよ」 観念したようにそう告げると、原始天尊はうっすらと微笑んだ。ように見えた。はじめから原始天尊はこの答えを待っていた。また、がこう答えるということも予想していたはずだ。の性格や境遇、それら全てを見越して。そしては答えた。 一介の道士である自分にどれだけのことが出来るかは分からないが、出来ることがあるのならやるだけ無駄ではないと思った。それに、太公望の手助けにもなるのなら。 しかし、気になることが一つ。 「原始天尊さま、私と太公望は2人で一緒に行動するんですよね?」 「そうじゃ」 「…どうして私を太公望と一緒に送り出さなかったんですか?」 共に計画を遂行せよ、ということなら、一緒に行かせるのが常ではないのか。原始天尊は、驚いたように押し黙ると、くるりとに背を向けた。 「特に理由があるわけではない」 腑に落ちない答えだったが、はそれ以上聞かなかった。聞いたとしても、きっとこれ以上の答えが返ってくることもないだろうということが分かった。この人は、こういう人だ。分かっている。 それに、一緒に送り出さなかったからと言って特に困ることもないだろう。 「では、さっそく行ってもらおうかの」 は原始天尊の隣に立ち、空を見上げた。そして頷く。 「はい、でも向こうは霊獣、私は宝貝なので、今日中に追いつけるかどうかは」 「今日中に追いつかずとも良い。頼んだぞ」 宝貝が風で揺れる。の宝貝は、風を操るもの。空を自由に飛ぶことが出来る。 「頑張って下さい、さん」 「うん、ありがとう。頑張ってくる」 白鶴に笑みを作ると、正面へ一歩進んだ。それから2人を振り返って、 「それじゃ、いってきます」 原始天尊は頷いた。白鶴もをじっと見つめる。そんな2人を確認してから、はひらりと宙に足を投げ出した。瞬間、体を貫くように強い風を感じたが、それはすぐに柔らかいものにかわる。原始天尊と白鶴はを見守るように、姿が見えなくなるまでその場から動かなかった。 「…、…無事に…」 の耳に届くはずのない原始天尊の声は、風の中へ吸い込まれるようにして消えていった。 戻 次 初執筆...2002,10頃 改稿...2006,01,30 |