「…さん、何かいいことありました?」 ぎくりとは体を強張らせる。楊ゼンは怪訝そうな顔を崩すことなくをじっと見つめていた。 「え、なに…なにですか?」 明らかに動揺しているに、楊ゼンは大きな溜息をつく。 「…僕が今怒ってるの、覚えてます?」 「それは、あの、はい、…すみませんでした」 許可証をもらわず無断で人間界に行ったことは、もちろん楊ゼンに気付かれた。肩を竦めたを見て、楊ゼンは苦笑いを浮かべる。 「理由は蝉玉くんから聞いてます。今日はもう遅いですし、今後はちゃんと改めて下さいね」 小さく息を吐きながら楊ゼンは言った。は心の中で蝉玉に感謝する。そしてもう一度謝罪の言葉と共に、頭を下げた。 「それじゃ、おやすみなさい楊ゼンさん」 はドアを開けて部屋から出ようとした。と、そのを楊ゼンは、もう一つ用事を思い出したと言うように呼び止める。は楊ゼンへ顔を向けた。 「…それで、どんないいことがあったんですか?」 の顔は、不審がられるほどに始終緩みっぱなしだったのだ。 花 身軽には地を蹴ると、水の流れる川のところどころに頭を出している岩の一つに飛び乗った。すう、と息を吸うと、水気をいっぱいに含んだ空気が入ってくる。すぐそばには大きな滝。 「…ここだよね」 滝の正面の、一際大きな岩に飛び移る。小さく呟いた声は、自分の声であるにもかかわらず、流れ落ちる沢山の水の音に紛れてよく聞こえなかった。岩の上に立つと、は滝を見上げた。 この場所で、妲己は消えた。女カの姿を借りた彼女は、最後に自分の望みを叶えるために消えていった。あのとき一瞬だけ見えた妲己の顔には綺麗な笑みが浮かんでいた。そしてその後、この「星」と一体になった妲己は、再びその姿を太公望の前に現したという。「妲己」という姿が現れたのかどうかは、太公望は教えてくれなかったため分からないが、彼女は消えてしまいそうだった太公望を助けてくれたのだ。 わらわはマザーとなって、あなたたちをずっと見守ってあげる。 最後にそう言った言葉を、妲己は言葉通り貫いた。きっと、本当に見守ってくれていた。今も見守ってくれているのだろうと思う。ここで妲己に何かを伝えようと思ったなら、その声は彼女に届くのだろうか。はその場に屈み込むと、右手で岩肌を撫でた。左腕に抱えている小さな花束が揺れる。 「」 「わっ!」 突然、なんの気配もなく後ろからかけられた声に驚いて、は思わず飛び上がる。重心が前に傾いていたために、驚いたことでバランスを崩した体が前方に倒れそうになるが、後ろに引っ張られたお陰でそれは免れた。というよりも、前方に倒れていたらおそらく川に落ちていただろう。咄嗟に身構えて力を込めた腕のせいで、花束が小さく、くしゃりと音をたてた。 「…そんなに驚くかのう」 前方に傾いたの体を、両肩に手を置いて後ろに引っ張って助けたのは太公望だった。溜息混じりの声に、は顔を上げて太公望を見上げる。 「驚くよ!全く気配もなく近付かれて、急に声かけられたら誰だって」 おそらくは、滝の音に紛れて足音も何も聞こえなかったのだろう。太公望はちょうど日の光を遮っており、表情がよく見えた。眩しさとは別の理由で顔をしかめたに、太公望は笑みを作る。 「それはすまんかったのう」 笑みを浮かべたまま、太公望は手を離した。は立ち上がると、じっと太公望を見つめた。 「…太公望、生きてること、いつみんなに言うの?」 そして唐突に切り出す。 「どうしたのだ、いきなり」 「私だけ知ってるのって、やっぱりなんか心苦しいっていうか、みんなに悪いっていうか…」 の言葉に、「ふむ」と太公望は頷いた。そんな太公望を見て、はどこか慌てたように「それもあるんだけど」と付け加える。 「……というより私、すぐ表情に出ちゃって、今みんなから不審がられてる」 尻すぼみの口調で、最終的には斜め下に視線を落としながら言うと、太公望は吹き出した。 「…笑い事じゃないんだから!」 最初は楊ゼンから。次の日には蝉玉と武吉からも「何か嬉しいことでもあったのか」と訊ねられた。普賢には「どうしたの、ご機嫌だね」と言われたし、葦護は会った瞬間「締まりのねえ顔」などと言った。甚だ失礼だ。 「太公望、自分で言うだろうなって思ってたからみんなには言わなかったんだけど、でもやっぱり顔に出てるみたいで…四不象ちゃんには「無理して笑わなくていいっスよ」、なんて言われたんだよ」 「それは…悪かった」 未だ笑いながら、太公望はぽんぽんとの頭を撫でる。太公望には、不審がられているというの挙動と、その周りの反応が手に取るように分かった。 「…いいけど、早くみんなにも会いにいってね。太公望がいなくなったことを悲しまなかった人、いないんだから」 「そうだのう…」 答えながらそっとの頭から手を離す。曖昧な答えしか返してくれない太公望に、は少し不満げな表情を浮かべる。 「そういえばその花はどうしたのだ?」 は、右腕に小さな花束を抱えていた。その花束に太公望は視線を落として訊ねる。今日も花を持っているのだなと太公望は頭の片隅で思った。数日前と違うのは、今日は全ての花が真っ白だということだった。すると、は表情を変えて、嬉しそうに微笑む。 「今日、蝉玉ちゃんと土行孫が結婚式を挙げたんだよ」 「……あいつら、ついに結婚したんかい」 「うん」 ふふ、と笑って花を見つめながらは頷く。 「幸せのお裾分けなんだって」 蝉玉の笑顔と、土行孫の嫌々ながらも付き合い続ける顔が思い浮かんだ。結局土行孫も、蝉玉を心から邪険に扱うことなどなかったし、これからもきっとないのではないだろうか。なんだかんだで、そういう二人が一番長続きするものだ。 「それ見て今度は喜媚さんが、四不象ちゃんと式挙げるって言ってたよ」 「……そうか」 太公望はそれ以上何も聞かなかった。喜媚が、四不象の隣ではしゃぎながらそう言っている姿も容易に想像できた。四不象には申し訳ないが、本当に実行するのだろうかと考えると少し面白かった。 「それで、この前は明永さんにお礼したけど、今日は妲己にするの」 太公望はを見た。の顔には、やはり嬉しそうに笑みが浮かんでいる。 「お礼?」 「妲己は太公望を助けてくれたんでしょ?」 の言葉に、太公望は目を丸くする。その反応に、は急いで言葉を付け加えた。 「別に、太公望の代わりにお礼するとか、そういう押し付けがましいものじゃなくて、ただ私が嬉しかったから、感謝したいからありがとうを言うだけであって」 「嬉しかったのか」 「うんそう嬉しかっ…」 はっとして、思わずは言葉を途中で切った。太公望はにやりと笑う。 「わしは幸せ者だのう」 「違っ…いや、違うこともないんだけど…でもやっぱりなんか違……いや、やっぱり違ってないんだけど!とにかく私は妲己にお礼するんです」 「ほーう」 未だ、太公望はにやにや笑っている。それを見て、はきっと太公望を睨んだ。 「…そうです嬉しかったんです!」 「…何も言ってないではないか」 微かにの頬が赤いような気がするのは、怒っているせいか、はたまた別の理由なのか。太公望に背を向けて川に向き直る。 「…それに妲己には、ちゃんとお別れらしいお別れしてなかったから」 妲己の方は別れを告げて消えていったが、からすれば突然のことすぎて、気付けば妲己はいなくなってしまっていた、というくらいのものだった。消える瞬間の笑顔だけは今でもしっかりと覚えているが。 長い間、ずっと敵として闘っていた相手の、突然の消滅。そしてその人が助けてくれた太公望。妲己に対してどんな感情を抱けばいいのかはまだ分からないし、全ての事実を受け入れられることもいつ出来るか分からないが、ただ太公望が戻ってきてくれたことは嬉しかった。そしてその機会を与えてくれたのは妲己だ。彼女が助けてくれなければ、太公望と会える日など永遠に来なかったはずである。妲己がのためにそうしたなんてことはあるはずがないが、そうしてくれた結果、が心から嬉しいと思ったのは紛れもない事実だ。 「助けてくれてありがとう」 自己満足でも構わない。ただ、嬉しかったという気持ちを伝えたいと思った。「幸せのお裾分け」と一緒に、あなたのお陰で幸せでいられると伝えたかった。 花束から手を離すと、足のずっと下を流れる水へ、すっと真っ白い花は落ちていった。川面に辿り着くと、流れに従って遠くなっていく。この星そのものになったという彼女にこの思いは届いただろうか。届いたらいい。 「素直ついでに言うと、私、やっぱり太公望が帰ってきてくれて良かった。だから妲己には本当に感謝してるの。…淋しかったもの」 背を向けたまま、ぽつりぽつりと呟く。 「…でも今は、」 どこか照れくさそうな笑みを浮かべ、は太公望の方を振り向こうとして、その動作と一緒に言葉も遮られた。 「…すまぬ」 後ろから強く抱き締められたのと同時に、すぐそばで声が聞こえた。驚いては動きを止め、目を大きく開く。その驚きからか、別のことからかは分からないが、鼓動が早まったのを感じた。聞こえたらどうしようなんて、今この場ではどうでもいいことを思った。咄嗟の場面で、その場とはあまり関係がなかったり重要でないことが、一番重要であることのように、頭の中に飛び込んでくることがある。は今まさにその状況に陥っていた。 「…あの…帰ってきてくれたので、今は、淋しくないです、大丈夫です」 何を言っているのか、自分でもよく分からなくなっていた。すると抱き締める力が少し強まり、思わずは体を硬直させる。 太公望は、体が崩れ、女カと共に消えていきそうになっていたあのときを思い出した。自分の力では最早どうしようもなかったし、仕方がないと諦めていた。女カを倒すという自分の役目は果たすことが出来、「仲間」としてずっと一緒にいた彼らのことも、きっと大丈夫だと見切りを付けたあのとき。なのに、全てに別れを告げたはずだったのに、いざ生き残ることが出来たら、まず最初に思ったのはやはり「仲間」だった彼らのことだった。そしてあの日、風につられるようにして向かったあの場所で、の姿を見つけた。 待っているのですよ。 あの日、どこからともなく聞こえてきたあの声は、明永仙姑のものだったのかもしれない。泣いていたは、今はもう笑ってくれている。 「…思ったんだけど」 突然、思い立ったようには言葉を紡ぐ。 「この星になったってことは、今、見られてるのかな」 太公望は、に腕を回したまま脱力した。 「だって、そういうことでしょ?この星自身になったってことはそういう…あ、でも地球なんて広いし、今ここにいる太公望と私なんて見てないかな」 大きな溜息をついた太公望に、は言った。ゆるゆると太公望はに回していた腕を解く。慌てては太公望を振り返る。 「いや、別に今のが嫌だったとかっていうわけじゃないよ、ただ本当に、思い付いた疑問を言ってみただけで、」 すると再びの言葉は途中で遮られる。 「やっぱりこっちの方がいいのう」 先程までとは逆側の耳のすぐ近くで声がした。背中に回された腕は温かい。しかしその心地よさとは裏腹に、の頭の中には疑問符が溢れていた。 「わしも妲己に感謝せねばのう」 太公望の声は笑っている。 「…そ、そう」 折角正常に戻ったはずの鼓動が、また少し早まっていた。 そして太公望はの耳元に唇を寄せると、小さな声で、にしか聞こえないくらいの声で囁く。滝の音に紛れることもなく、その声と言葉はの耳に届いた。自身言ったことのある言葉だったし、そのときに太公望も言ってくれたことがあるのに、はなぜか面食らってしまい、目を大きく開いて太公望を見つめた。太公望はにっこりと笑っている。 「…さんは、今度はどうしたんですか」 楊ゼンは呟くように言った。楊ゼンに訊ねられ、蝉玉は肩を竦めて首を傾げる。 「さあ、また今までとは違ったおかしさよねちゃん」 「今までに類を見ないくらいぼーっとしてるっス。数分前には柱にぶつかって武吉くんに心配されてたっスよ」 四不象の言葉に、楊ゼンは顔をしかめる。数時間前に蓬莱島に戻ってきたは、どこか上の空で、今までにないくらい呆けていた。昨日までは、ひたすら緩んだ表情だったのが、今日は一体どうしたのだろうか。人間界で何かあったのかと聞くと、急に我に返って勢いよく首を左右に振りながら否定した。 「雲中子さまに診てもらった方がいいんじゃないかな…情緒不安定にでもなってるのかもしれない…」 前方をふわふわと歩いているを、3人は見つめていた。 「そういえばさっき、スキップっていう言葉に過剰反応してたわよ、ちゃん」 「…スキップ?」 楊ゼンに蝉玉は頷く。 「ドレス着たままスキップって出来るのかしら、結婚式でやってみれば良かったわって言ったら、持ってたお皿落として割っちゃったの」 「スキップ…」 「…蝉玉くん…」 「まあっなによ二人ともその表情は!」 「とりあえず、二・三日様子を見てみよう」 「そうっスね」 ちなみにが柱にぶつかったとき、そばにいた武吉は「すき焼き食べたいなぁ!」と言ったのだという。 「スキップと…」 「…すき焼き?」 「接点がないっス」 が反応したという単語の二つを並べてみても、何も分からなかった。その二つとが柱にぶつかったことや皿を割ったことが関係しているのかは、本人にしか分からないため、周りの人間は、とにかくの動向を見守るしかなかった。 四不象と武吉が人間界の武王たちのところへ新しい仙人界の報告に行き、太公望が生きているという情報が飛び込んでくるのは、それから二日後のことである。 戻 2006,10,28 |