今でもはっきりと思い出すことが出来るのは、両親の最期の声だった。それと同時に甦ってくるのは、鼻を突くような血のにおいや、殷の兵士たちの声。小さな隙間から見ていたというのに、大きな画面で見たかのような感覚。ざわざわと音をたてて近付いてくる恐怖の気配は忘れようとしてもすぐには無理だった。


あの時の記憶だけなくなれば良かったのに。いっそのこと、この体ごと消えて無くなれば良かったのに。いけないことだとは思いながらも、あのときは、心からそう思ってしまった。


それでもの運命は、「死」というものの方向に、向いてはいなかった。




























いつか見た、あの空へ




























目を開けると、とても高い所に、見知らぬ天井があった。


「…気が付いたようじゃな」


聞き覚えのない声が聞こえた。声のした方に視線を向けると、そこには見知らぬ人物がいた。とても長く、とても白い髭と髪を持ち、年老いたその人はを見下ろしていた。


ぼんやりとする頭で考え、見ると、自分はベッドに寝ているのだとは分かった。体は怠く、上半身を起こす気力さえもなかった。


「…ここはどこ?おじいさん…誰?」


は聞いた。声は自分でもびっくりするくらい掠れていて、うまく出せなかった。しかしその老人にはちゃんと聞こえたようで、その人はの言葉に小さくため息をついて「やはり…」と呟いた。


「ここは仙人界の崑崙山という場所じゃ。そしてわしはここで教主をしておる元始天尊という者。、おまえの師匠になる」


「…師匠?」


元始天尊は頷いた。


、おまえには仙人骨がある。仙人になるといい」


その言葉の意味を理解するには、少しの時間が掛かった。


「…仙人…?」


「さよう。ここで修行を積めば、おまえも仙人になれる。すぐに修行を始めろとは言わん。…落ち着くまで十分に休むと良い。この部屋をおまえに与えよう。好きに使うとよいぞ」


それだけを伝えると、元始天尊は静かに部屋を出て行った。


部屋には、と静寂だけが残った。軽くもなく重くもなく、暗くもなく明るくもない空間。ただ静かだった。窓から見える空は近いが、鳥の声はしない。


「…お父さん…お母さん…」


大切な両親から、「死」というもので突然別れさせられたことは、心には重すぎた。溢れては頬を伝っていく涙の感触が、夢ではないことをに教えてくれた。








崑崙山へ来て一ヶ月ほど経った。はまだ、ぼんやりと一日を過ごす日々を送っていた。原始天尊はよく様子を見に来てくれたし、少しずつ打ち解けられたが、まだ部屋の扉から外へ出たことはない。部屋の窓から空側の外の足場に出て、空や地上を眺めるのが日課になっていた。手を伸ばせば届きそうに思える青空と真っ白な雲がは好きだった。こんなに近くに空と雲を見たことなど今までなかった。一日中見ていても飽きなかった。


その日も、いつものように空を眺めていただったが、急に視界に何かが入った。


「…鳥…」


それまでにも、空を眺めていて鳥を見ることくらい何度もあった。崑崙山の浮いている高さの空まで上ってくる鳥の種類は限られている。ほとんどが、大きな鳥だった。今の視界に入ってきた鳥も大きな鳥だったのだが、その鳥は、少し違っていた。違っているように見えた。


大きな翼を広げ、青空の中を自由に楽しそうに飛ぶその姿は、とても印象的にの目に残った。には、その鳥が今まで見たのよりもとても大きく見えた。


…少し部屋の外に出てみようかな…。


それまでは特に、扉から外へ出る気はしなかった。それが今、忘れかけていた「好奇心」が、の中に少しだけ戻ってきたのだ。


「元始天尊さまは、部屋から出るなとは…言ってないもんね。…大丈夫だよね」


自分に言い聞かせる呪文のように呟くと、は扉へと近付き、恐る恐る開け、顔だけを出して覗いてみた。そこは広い廊下だった。人の気配は全くない。は音をたてずに扉を閉めると、辺りを見回す。誰もいないのだろうか。あまりにも人気のなさすぎるその廊下に、は首を傾げる。


「まぁいいや。…ちょっと探検してみよう」


左を見ると廊下は続いていて、天井には明かりがずっと奥まで並んでいる。右は10歩ほど行ったところで別の廊下に突き当たるようだ。心細さを打ち消すように再び呟いて、は右側に歩き出した。から見て右手の方が明るかった。右にある、突き当たりの廊下には窓が並んでいる。窓から差し込んでくる光で明るい廊下に出ると、次は左に進んだ。廊下は窓に沿って長く続いていた。窓とは逆の壁側には、が出てきたのと同じような廊下に続く道がいくつもあるらしい。


広いなあ、誰がこんな建物造ったんだろうとは考え、ここは地上に建つ建造物の中ではないのだと言うことを思い出す。そして、後一歩で奥に続く廊下の三つ目とかち合おうとした瞬間、


「わっ!」


の進行方向にあった曲がり角から出てきた人と、思い切りぶつかってしまった。その上、の頭の上に何冊か本が落ちてくる。本の角が当たらなかったことが、不幸中の幸いだろうか。


「…いった…」


「うっわ、ごめんね大丈夫かい!?」


その場に突っ立ったまま頭を押さえたに、その人物は言った。腕と腕の間から、はその人物を見上げる。肩まで伸ばしてある黒髪に、黒い服、そしての上に落ちてきたもの以外にも、まだ両手一杯に巻物やら本やら紙やらを持っていた。


「あれ…?君、もしかしてちゃんだよね?」


謝罪の言葉に黙って頷き、本を拾うのを手伝おうとしたの顔を見て、その人が聞いた。


「…そう。あなたは誰?」


最後の一冊を渡すと、も聞き返した。


「私は太乙真人。ここで十二仙っていう役職についてる者だよ。君が人間界から連れてこられたときに看病したんだけど、眠っていたから覚えてないよね」


笑いながらその人は言う。


「もう体は大丈夫なのかい?もし少しでも具合が悪くなったりしたらちゃんと言うんだよ?」


念を押すように言われ、は、再び黙って頷いた。そんなの反応に太乙は満足げににこりと笑うと、「よいしょ」と言ってバランスを取る。


「それじゃ、またねちゃん」


持ち物が多すぎるからだろうか、よろけながら太乙真人はが来た方へと歩いていく。


「あ、あのっ、手伝いましょうか?」


慌てるように駆けて太乙を追いかけ、は言った。しかし太乙は笑顔のまま首を横に振って、


「ありがとう、大丈夫だよー」


それだけ答えると、曲がり角を曲がり、別の廊下へ消えていってしまった。は太乙を見送ると、そこに突っ立ったままぼんやりと、誰もいない廊下をじっと見つめた。


「わー!危ない避けてっ!」


突然、後ろから叫び声が投げられた。広い廊下に、その声は大きく響いて、は驚いて後ろを振り向く。見ると、両手をいっぱいに広げたくらいの大きな透明の丸い玉が宙に浮き、めがけて飛んできていた。


「うわっ…」


とっさには身を低くし、それを避けた。丸玉はの頭上を通り過ぎると、弧を描いて床に落ちる。液体が地面に落ちたときのと同じ音がして、その形を保つことなく透明の球は弾けるように壊れた。跳ねた水が二、三滴腕に飛んできて、は目を丸くしたまま背後の床を見る。そこには大きな水たまりが出来ていた。


「…危なかったぁ…」


安堵の息と共に、に注意を促した人物は呟いた。見ると男の子だった。よりは少し年上だろうか。何がなんだか分からず、疑問符しか出てこないは、目を丸くしたままその少年を見つめる。


「こら!太公望!」


今度は廊下に怒鳴り声が響いた。その声に少年は小さく「げ」とはき出すと、顔をしかめる。声の主は見えなかったが、はその声に聞き覚えがあった。


「…原始天尊さまって千里眼持ってるからなぁ…!」


「…え、え?」


「太公望」と呼ばれた少年は、なぜかの手を掴むと走り出した。突然ことで拒否する暇も振り払うことも出来ず、流れのままその少年に引っ張られていく。右に曲がり、左に曲がり、真っ直ぐ進んでまた左に曲がる。何とも器用に、少年はの手を引っ張りながら走った。逃げ足が速いようだ。


「…ここまで来れば大丈夫かな。あんなに怒らなくても良いのに…ちょっとした好奇心だったんだけど」


肩で息をして、落ち着くのを待つ。少年はどうしてかあまり息が上がっていない。とりあえず引っ張られるがままに連れてこられたが、にはここがどこなのか見当も付かなかった。ただ、廊下の一番奥なのだろう。行き止まりだった。


「ところできみ誰?」


を見て首を傾げた少年に、は呆れのような腹立ちのような感情が沸き上がってくるのを感じた。


「……それはこっちのせりふなんだけど!突然走るし、私、疲れたんだけど!それにお母さんから、人に名前を聞くときは、まず自分から言えって習いました!」


突然の少女の怒りように、少年は驚いて一歩後退する。


「…うわ、ごめ…ぼーっと突っ立ってるもんだから、つい…。…僕は、太公望。人間界にいたときは呂望って名前だった。ちょっと前から元始天尊さまのところで修行してる一番弟子」


の様子を伺いながら太公望は言った。その太公望の口から原始天尊という名前が出てきたことに、は少し驚く。そういえば先程太公望に怒鳴り声を上げていたのは原始天尊だった。


「…それで、きみは?」


がこれ以上怒らないようにしているのか、注意深く太公望は訊ねた。


「…私は…。たぶん…元始天尊さまの弟子に、なるんだと思う」


が言うと、太公望は一瞬ぽかんと口を開けて呆けたような顔になったが、すぐにそこには笑みが灯る。


「…きみが、?…そっか、きみがそうだったんだ」


何かに合点がいったのか納得したのか、太公望はを見つめながら一人で頷いている。


「…何?」


「原始天尊さまから少し前に聞いてたんだ、弟子がもう一人いるって。同じくらいの日にここにきて、僕とそんなに歳が変わらない。きみがそうだったんだ」


嬉しそうに太公望は笑う。


「君のこと、少しだけ原始天尊さまから聞いたよ。…周族の生まれで、両親が殺されたって」


太公望が言うと、の体が少し震えた。太公望から目を離して俯く。それを見て太公望の笑みは気遣うような、少し弱いものにかわる。


「…僕は羌族の出なんだけど、僕も殺されたんだ一族みんな、殷の兵士に。…嫌なところだけ一緒だ」


太公望の言葉に驚いて、は顔を上げた。


「けど、僕の場合は目の前で親が殺されたりしたわけじゃない、」


「太公望は」


太公望の言葉を、が遮った。太公望はを見つめる。


「…寂しくないの?悲しくないの?どうしてそうやって…笑ってるの?」


声が震えて、は今にも泣いてしまいそうだった。両親が殺されるのを、目の前でその場面を見てしまった。鮮明に残っている。叫び声すら上がらなかった。消したくても消えてくれない。同じような状況に陥った太公望は、なぜこんなに笑っていられるのだろう、はそう思ったのだ。



「…確かに寂しいし、悲しいよ。一族を殺した殷が憎いとも思う。でも、決めたんだ。仙人になって、強くなって、いつか一族のみんなの敵を討つんだ。羌族の名に恥じないような立派な仙人になって」


太公望は、強い光の灯った目をに向けて言った。強い言葉を聞いたはずなのに、どうしてかは堪えられなくなった。頬を涙が伝う。


「…そんなの…全然、考えたことなかったもん…」


雫が床に落ちる。俯いたの頭を、太公望はぽんぽんと撫でた。







「全く太公望の奴め…どこに行きおったのだ…?」


原始天尊は、勝手に宝貝を持ち出した太公望を探していた。ちらりとその姿が見え、急いでその廊下に出たのだが、そこには大きな水たまりだけが残っていた。くまなく辺りを探してみたものの、未だに見つからない。逃げ足ばかりが速くなりおって、と原始天尊は呟く。千里眼を使えばすぐなのだが、それを使うのも労力がいらないはずがなかった。


「原始天尊さま」


背後から呼び止められ、原始天尊は振り向いた。


!…部屋の外でこうして会うのは初めてじゃな」


驚きに目を丸くした原始天尊に、は笑う。


「…何かあったのか?」


笑みを浮かべたに原始天尊は更に驚いた。


「…私、仙人になります。立派な仙人になってみせます。私を守ってくれたお父さんとお母さんが喜んでくれるような仙人になりたいです。私…」


がそこまで言うと、原始天尊はの頭の上に手を置いた。


「…ではさっそく明日から修行に励んでもらおうかの?」


微笑みながら原始天尊は言う。頭に置かれた手が温かくて、はなんだか嬉しくなる。


「そうそう、おまえの兄弟子に当たる者がおるのだ。後で紹介しよう」


「はい」


兄弟子が誰なのかは知ってるけど、はそう思いながら、笑顔で頷いた。














「…太公望って、昔は無邪気な感じで、可愛かったよね」


突然、ぽつりとは呟いた。


「……おぬし、喧嘩売っとるのか?」


「本当のことを言ったまでだよ」


そう言ったに言い返そうとして、太公望は思い直したのか一拍置くと、大きく溜息をついた。


「…も昔はわしの後をよく追いかけてきて可愛かったのにのう」


「何それ!そんなことしてません」


「今度原始天尊さまに聞いてみるとしよう。白鶴も覚えておるかもしれんのう」


にやりと笑いながら言った太公望に、は大きく息を吸うと


「仕事をして下さい」


扉を勢いよく開けて入ってきた周公旦に制された。