「どうして彼はスパイなんてしているんでしょう?」 機械音や、コンピュータを操作する音に紛れて全ては聞こえなかったようだ。が話しかけた白鶴は、を振り返ったものの「なんです?」と聞き返して首を傾げた。 「楊ゼンのことです」 が言うと、白鶴は「ああ」と頷いた。そして再びコンピュータの画面に向き直った。 「珍しいですね、さんが他人のことを話題に出すなんて」 白鶴が言った。は白鶴の真っ白い背中を見つめながらなんとなく黙った。部屋の中は機械音で溢れる。しかしそれは耳障りでない、極めて静かな音だった。白鶴も喋らず、も何も言わなければ、部屋はとてもひっそりした空間になる。 「白鶴はどうしてだと思いますか?」 楊ゼンがなぜスパイという任を受け、それを実行しているのか。訊ねると、白鶴は手を止めて考え込むように斜め上を見上げた。 「さぁ、私も楊ゼンとは数えるくらいしか話したことがありませんから。分かりかねます」 は小さく息をついて、椅子から立った。そして、白鶴がデータを打ち込んでいる機械の隣に並ぶ、大きなガラス張りの容器に手をあてた。ひやりと少し冷たい。 「…でしたら、どうしてさんは、妲己の監視という任に就いたのですか?」 手を止めて白鶴は、今度は隣に立つを見上げて聞いた。少し驚いて、は白鶴を見下ろす。しかしすぐに正面を向いて、容器の中で眠るように目を閉じている妲己を見上げた。 「…さぁ、どうしてでしょう」 なぜ「妲己の監視役」に就いたのか。命ぜられたのはいつのことだったろう。それすらあまり覚えていないが、原始天尊に呼び出され、命令されてそれを受けたのは覚えている。断ることだって出来たのだがしなかった。断る理由が特になかったからかもしれない。なぜ、監視役に就いたのだろう。なぜ、「人間界を操る」側にいるのだろう。人間界で生まれたのに。 「私にも分かりません」 小さな声で答えると、「そうですか」とだけ白鶴は答えた。また白鶴の正面にある画面内が動き出す。には分からない記号で埋め尽くされていく。 なぜ妲己の監視役に就いたのか自分でも分からなかった。 「楊ゼンはどうして「裏切り者」をやっているのか、教えてくれるでしょうか」 それよりも、分かっているのだろうか。なぜ、自分がそんな任に就いているのか。白鶴は「さぁ、どうでしょうね」と言った。素っ気なく、答えというよりも生返事に近かった。 一度だけ、偵察という理由で禁城を抜け出して西岐に行ったことがある。どんな人が「封神計画」を進めているのか、次の「周」の王になるのはどんな人間なのか、見てみたいと思った。そのときに見た楊ゼンは笑っていた。封神計画実行者の太公望や、仲間たちの中で笑っていた。あれも全て演技なのだろうか、そう思った。 封神計画が終わるとき、楊ゼンは最終的に原始天尊を裏切った。スパイだった彼は、スパイではなくなったのだ。どうしてそうなったのかは知らない。楊ゼンと初めて言葉を交わしたのは、封神計画が終わり、妲己が消えてしまった後だった。 「さんですね、初めまして。楊ゼンと申します」 知っています、原始天尊さまの命で「スパイ」になっていたんですよね。と、そうが言う前に、 「妲己の監視役に就いていらしたのですよね、原始天尊さまから伺ったことがあります」 自身のことを言われて、は「そうです」と頷くしかなかった。は今、「妲己の監視役」ではなく崑崙山の一道士に戻っていた。しかしそれは対象であった妲己がいなくなったからで、自主的なものではない。 楊ゼンの隣にいる太公望は、「妲己の監視役」という言葉に驚いたらしくを見つめていた。スパイだったはずの楊ゼンは原始天尊を裏切り、封神計画実行者だった太公望たちと本当の意味での仲間になった。本来だったら、彼らはこんな風に隣同士に立つことはなかっただろう。 楊ゼンは答えてくれるだろうか。なぜスパイになっていたのか。そしてなぜ裏切り者をやめたのか。 「…あの、」 楊ゼンは穏やかに笑っている。最後に笑ったのはいつだったろうか、はぼんやり考えた。 戻 妲己の話と同じ主人公というどうでもいい設定。 2006,11,19 |