月がとても綺麗な夜だった。


「…ー」


「…、…呼びましたか」


「2回くらいね。さ、寝るなら自分の部屋で寝なよ」


雲中子の部屋で椅子に座り、手にはその辺にあった分厚い本を持ち、はこっくりこっくり船を漕ぎ出していた。雲中子はというと、台の上には沢山の実験器具、薬品の調合を行っていた。徹夜してでも今夜中に完成させるんだ、と昼間から高らかに宣言していた。


「…私、いたら気が散りますか?」


本を脇にあった机に置いて、目を擦りながらは気怠そうな声で訊ねる。


「いや、別に。、こわいくらい静かだし」


雲中子はに背を向けたまま答えた。部屋の中には、雲中子が使う器具のかちゃかちゃという無機質な音と、薬品の匂いがいっぱいにあるだけだった。


「今日も遅いし、眠いんでしょ。私はこれ、ほんとに今夜いっぱい掛かりそうだし、に手伝ってもらうこともないから。おやすみー」


「…やだ」


呟くように、は答えた。無機質な音が止まる。雲中子はゆっくり振り向いた。珍しく、その顔には驚いた表情が刻まれている。


「…やだって。もしかしてもう寝てんの?今までの全部寝言?」


「……起きてますよ」


それでも、瞼が重いのは事実で、いま横になったら確実に数秒で眠れるだろうなとは思った。本の代わりに掴んだクッションを抱き寄せる。


「…今日みたいな、月が明るい日は嫌なんです。嫌なことばっかり思い出すから」


この部屋は明かりが灯っていて明るいから、いくら月が綺麗に輝いていてもその光はここまで届かない。は、カーテンの閉まった窓を横目で見た。


「へえぇ、初耳」


雲中子は、興味深そうに目を丸くしながら言った。実験は一時中断して、体は完全にの方を向き、台に寄り掛かっている。


「…思い出したくない。一人になりたくないです」


明るすぎる月は、見たくないものまではっきり照らしてくれる。もし闇だったなら、見なくてよかったはずのもの、見えなかったはずのものまで。明るすぎる、綺麗な月は嫌い。


さー、…今けっこう可愛いこと言ってるって気付いてる?」


「……気付いてないです寝言です」


急に恥ずかしくなって、はクッションに顔を埋めた。いくら師匠だからって、この人に言ったことが間違いだったような気がしてきた。早くも後悔しそうになる。


「ま、いいや」


雲中子が、そう呟いて再びくるりと台に向かった気配がした。


「部屋に戻りたくないんならここにいても良いけど。私は今日どうせ寝ないだろうし、ベッド使ってもいいよ」


雲中子の手元にあるビーカーの中で、透明だった液体が薄い桃色に変わったのをは見た。


「…この前、そのベッドからムカデ出てきましたよね」


は雲中子の背中を睨む。雲中子は数秒間だけ首を傾げていたが、ああ、と頷いた。


「新薬の研究用に捕まえてきてたやつが逃げてたんだよ。しょうがないでしょーよ」


でもちゃんと見つかって良かったよ、などと、雲中子は呑気に返した。まさか出てくるはずもないところからムカデなんかが出てきて、あのときは、は本当に心臓が止まるかと思った程だった。


「ムカデでもイモリでも、研究熱心なのは結構ですけど、ちゃんと管理して下さい」


「はいはい」


クッションを抱き締めたまま、は欠伸を噛み殺す。眠いけれど、あのベッドを使うのはやはりなんとなく気が引ける。かといって一人で部屋に戻るのも嫌だった。
そのとき、ふわりと、今まではなかった柔らかい匂いが漂ってきたことに気付いた。薬品のものとは違う。なんだろう、とは顔を上げた。


「ほら」


柔らかい匂いが、すぐそばにやって来ていた。雲中子が差し出してきた、真っ白い湯気が立ち上るお茶がそれのもとだった。差し出したカップをに受け取らせて、雲中子も自分のために淹れていたお茶に口を付けた。受け取ったカップから、お茶の温もりがじんわりと手に伝わってくる。


「それ飲んで、ゆっくり休むんだね」


一口飲むと、温かさが体中に広がっていった。そのお茶は仄かに甘くて、気持ちが一気に落ち着いて、安心感を引き出してくれた。


「…ありがとうございます」


小さな声で言うと、雲中子はの頭を撫でた。その手は温かくて優しくて、一層安心感が大きくなったけれど、なんだか悔しかったから何も言わなかった。
次にがはっきり気が付いたとき、空は明るくなっていた。いつの間にか眠っていたのだ。あの、少し気が引けるベッドの上で。雲中子は本当に徹夜したのか、フラスコ等の実験道具を片付けているところだった。が上半身を起こすと、雲中子はに気付いて、


「や、よく眠れたー?













2006,02,13