「ねえ、あなたが雷震子?」


「…誰だあんた」


「あなたは雷震子なの?」


「…ああ、そうだけどよ」


「へええ…あなたが」


なんなんだこいつと思いながら、雷震子はいつの間にか自分の背後に立っていた女性を見た。20代前半ほどかと思われる。
雷震子に、何の脈絡もなく唐突に訊ねてきた彼女は、雷震子のことを確認するとまじまじと雷震子を眺めだした。見知らぬ人間に無言のまま見つめられることは、不快でしかない。雷震子は顔をしかめた。


「なんなんだあんた、つーか誰なんだよあんた」


「別に、なんでもないわよ。ただ、この人が件の、西伯候姫昌の100番目の子どもなのかと思って」


女性の言葉には、褒めているような雰囲気は微塵も感じられなかった。ますます雷震子は表情を歪ませる。


「あんた何が言いたいわけ?喧嘩売ってんのか?」


「だから別に、なんでもないわよ。ただ、かの有名で立派な西伯公姫昌の息子にしては、言葉遣いが乱雑だなと思って」


「てめえ、売られた喧嘩は買うぞおら」


「まあぁ、喧嘩なんて売ってないわ。そういう喧嘩っ早いところも良くないわよ。しかも相手は女」


言い方こそ穏やかなものの、女性の言葉一つ一つがどういうわけか一々かんに触る。いらいらと雷震子は足を踏みならすと、腕を組んで女性を睨んだ。


「…で、あんた誰だよ。その西伯候姫昌の息子であるオレにそんな口きいてもいいのか?」


この西岐城にいるということは、少なくとも西岐城に関係がある人物であることには間違いない。女官だろうか。女性が身に纏っているものは、至ってシンプルではあるものの、安っぽいものには見えない。


「私のことはいいの。…それにしても本当に残念。雷震子と言えば、あんなに可愛い子だったはずなのに」


雷震子から目を離し、女性は大きな溜息をわざとらしくついた。


「なんなんだてめえ、さっきから!好き勝手言いやがって、オレの何を知ってるっつうんだよ」


「…おまえら、何してんだ?」


二人の間に割ってはいるように、呆れ気味な言葉が投げかけられる。


「発兄!なぁ、なんなんだよこいつ。さっきからオレに失礼なことばっか言ってきやがるんだ!」


「きやがるですって!本当にどこで覚えてきたのそんな言葉?」


「オレの勝手だろうがよ!だからなんなんだよてめえはさっきから!」


偶然そこを通りかかった姫発は、二人の様子と言い合いに溜息をつく。


「…、ちゃんと自己紹介はしたか?自己紹介っつーか、名前言ったか?」


「いいえ、まだよ。だって彼の態度や言葉遣いがあまりにショックだったんだもの」


女性は姫発からと呼ばれた。彼女の名だ。そのの言葉遣いは、姫発に対しても雷震子に対するものと変わらなかった。
そして今までの彼女の態度はショックによるものだったのか。どう考えても喧嘩を売っているようにしか雷震子には思えなかった。


「そういえばを旦が呼んでたぞ」


姫発が言うと、はあからさまに顔をしかめた。


「嫌だわ、またお説教?あの人の話長いんだもの…。まったく、一昨日来やがれだわ」


「おまえの言葉遣いもたまにどうかと思うぞ、俺は。あと言葉の選び方がおかしい」


姫発とのやり取りを見比べながら、雷震子は頭の中に何か引っかかるものを覚えた。という名前に、聞き覚えがある気がしたのだ。


「…発兄、この人誰なんだ?」


雷震子は恐る恐る、再度訊ねる。どうして恐る恐るしたのかは、自分でも分からなかった。雷震子の問いに、姫発は笑った。


「雷震子、この顔に見覚えはないか?」


姫発はの腕を引っ張り、雷震子の正面に立たせる。黒い瞳と視線がかち合った。背は姫発より頭一つ分ほど小さい。は黙ったまま姫発に従って雷震子を真っ直ぐ見つめていたが、ふと姫発を見上げると口を開けた。


「発兄様、旦兄様に呼ばれてるなら私行かなきゃいけないわ。こんなところで油売ってる場合じゃないわ」


「…「兄様」!?」


雷震子は目を見開いて、思わず一歩後退る。雷震子の態度に、は眉を顰める。


「私に兄がいることは、そんなに驚くことかしら?」


、そうじゃないと思うぞ」


そのとき雷震子は、ずっと昔に聞いたことのある、「発兄様」と姫発のことを呼ぶ少女の声を思い出した。この、目の前にいるとほぼ同じ声。少女の声の方が幾分か高かった気がしたが、それは幼かったからだと理由もつく。


「…姉だ」


ぽつりと雷震子が呟くと、姫発の方を見ていたが、目を丸くして雷震子を見た。そしてゆっくりと嬉しそうに笑った。


「あら、思い出してくれたのね」


その笑顔には見覚えがあった。崑崙山に行くまで、姫発や周公旦たちと同じように一緒に遊んだことのある、姫昌の血を引く姫家の娘だ。


「そうだぞ雷震子、あの体が弱くてあまり外に出られなかった、おまえの姉であるだ」


姫発の言葉も助け、雷震子は次々と思い出した。
は昔よく病気にかかっていたのを覚えている。だから姫発たちと部屋まで見舞いに行ったこともあるのだ。あの病弱で、色が白く、大人しかった姉が


「……こんなのに」


「雷震子が今どういうことを考えているのか手に取るように分かるわ」


にこにことは微笑んでいる。先程までの無表情が嘘のようだ。しかし手に取るように分かっているのなら、何が嬉しいのだろうかと雷震子は思った。


「私も本当にショックだったのだから、お互い様よ」


今度は心を読んだ。雷震子はを奇妙な面持ちで見つめる。


はおまえが仙人界に言ってから随分心配してたんだ。ま、そういうわけだから仲良くしろよ」


姫発が言い、雷震子が再びを見遣ると、はにっこりと笑った。


「改めて、おかえりなさい雷震子」


は姫発と共に周公旦のもとへ向かうため、雷震子とはその場で別れた。掴み所のなかった「姉」の様子に、ただただ雷震子はその場に突っ立ったまま二人を見送る。
そして雷震子は確かに聞いた。二人が雷震子のそばを離れて、廊下の角を曲がるとき


「昔のような天真爛漫のままの雷震子が帰ってくるわけないことは、おまえだって分かってただろう。諦めはついたか?」


「まあ発兄様、諦めだなんて。今からでも遅くないわ。昔みたいに天真爛漫で無邪気で、「姉」って可愛く言ってくれる雷震子に戻すことは不可能じゃないと思うの」


嬉しそうにそういうの言葉を。
うっかり思い出し、「姉」だなんて呟くんじゃなかったと雷震子は何となく後悔した。また、「人間、誰しも成長するんだから無理だろうよ」と言った姫発の言葉をが受け止めてくれることを何となく祈る。











2006,12,03