空はどんよりと濁っていた。昨日は晴れていた気がするがあまり覚えていない。澄んで青い空が懐かしいと思った。空の下に荘厳な空気を纏って佇む禁城が見える。立派ではあるのだが、甦ってくるのは暗く冷たい感触と記憶ばかりだった。


はつい数ヶ月前まであの中にいた。紂王の妃の一人として暮らしていた。の一族は代々王家に仕えていて、父親が紂王の配下の中でもなかなかの位についていたために、は生まれたときから城にはいることが決定していた。物心が付いた頃からずっと言われ続けていたことと、父からの「家が豊かになればお前ももっと贅沢ができる」という魔法のような言葉によって、は自分が城にはいることは当然のことと捉え、そのまま妃となったのだ。


には、同じ妃として仲良くなった人がいた。武成王黄飛虎の妹で、紂王の第三妃である黄氏だった。がどういう経緯、家柄でここへ来たのかを話すと、黄氏は少し悲しそうに笑っていた。そして「私は人質なのよ」と言った。には黄氏の言った意味がよく分からなかったし、なぜ黄氏が少し悲しそうな顔をしたのかも分からなかった。


黄氏が悲しそうな顔をした日から少し経って、その黄氏が死んだと聞かされた。同時に、黄氏の義姉であり、黄飛虎の妻である賈氏も亡くなったのだという。紂王と妲己が原因なのだと、他の妃たちが噂しているのがの耳にも入ってきた。しかしそれ以上、何があったのか詳しい情報は後宮には入ってこず、ただは友人の一人を失ってしまったことがとても悲しかった。


黄氏と賈氏が亡くなった数日後、の周囲の状況は急変した。黄氏の兄で、武成王という職に就いていた黄飛虎が造反を企て、朝歌を離れたのだという。そしてそのとき、あろうことかの父は紂王に逆らい、黄飛虎を庇ったのだ。


「武成王は紂王さまを裏切った。その裏切り者の側につくことは、同罪だと思いますわよん」


父に妲己からかけられた最後の言葉だった。


命だけは助けられたものの、は禁城の後宮を追い出されることになった。裏切り者の娘は妃という居場所にはいられない。それまでの家の地位も全て無くなり、かわりに忠誠心を欠いた一家というレッテルを貼られた。母と二人だけの生活になり、それまでの日常とはかけ離れた現実がには突きつけられた。今までは、ずっと後宮にいれば衣食住に困ることはなく、むしろ重い税を払っている民衆より良い暮らしをしていたのだ。これからどう暮らしていけばいいのかも分からない。


父方の人間は皆早くに亡くなっており、誰もいなかった。唯一頼れるはずだった母方の家は、の父が処されたのと同時期に、一方的に縁を切ってきていた。たちの存在は煙たがれ、突き放されたのだ。


「どこで間違えたのかしら?」


日に日に目がうつろになっていく母が、ある日そう呟いたのをは聞いた。「なに?」と聞き返したが、母はぼんやり天井当たりを見上げたまま答えなかった。もともと母も良い家柄の出だったために、突然底に落とされたような生活に耐えられなかったのだろう。それから4日後、母は自ら自分の命を絶った。


が後宮に入るまで住んでいて、両親がつい数週間前まで暮らしていた家には今、しかいない。敷地ばかりが広く、なんの音もしなかった。人の気配は全くない。こんなことになる前までは、家には仕えている人間も何人かいた。そして父も母もいた。誰もいないことがこんなに静かだったなんて、は初めて知った。


家の中は静かすぎて、少し寒くて、は外に出た。いつの間に崩れたのかは分からないが、少し壊れかけた、背の低い石垣の上に腰掛ける。広く大きな家の石垣が欠けているのは不格好だったが、町並みが町並みなのであまり気にはならない。


空はどんよりと濁っていた。灰色に濁った空は今にも泣き出しそうだ。これからどうすればいいのだろうか。


どこで間違えたのかしら?


母が呟いた言葉が甦ってくる。どこで間違えたのだろうか。いや、本当にどこかで間違えたのだろうか。父は黄飛虎と仲が良かった。友人を庇うのは当然だった。黄飛虎は殷を裏切った。しかし黄飛虎が造反したのは、紂王と妲己のせいで妻と妹が亡くなってしまったからだ。紂王と妲己は一体何をしたというのだろう。そもそも私がこうなってしまったのはどうしてだろう。妃となったから。後宮に入ったから。この家に生まれたから。代々殷に仕えていたから。


ぽつりと雨が落ちてきた。ぽつぽつと石垣や地面に雨が当たって音がする。雨に濡れるのは嫌だったが、体は怠く、動く気が起こらない。雨は段々本降りになっていき、しとしとという音に変わった。どこで間違えたのかなんて私が聞きたいと、は今はもういない母に向かって思った。


そのとき突然視界が歪み、は引っ張られるように地面に倒れ込んだ。雨に濡れた土はひどく冷たかった。頭がくらくらとして、俯せのまま起きあがることができない。そういえば最後に食事をとったのはいつだっただろうか。分からなかった。朝歌は、豪勢なのは城とその周りばかり、そこから離れた場所にいる人間にとっては生活するのが困難な王都と成り果てていた。


雨はの体を打ち続ける。はふと目を閉じる。このままここで死ぬのだろうか、そんな考えが頭をよぎった。


「助けてあげようか」


空から声が投げかけられたような気がした。うっすら目を開けると、降ってくる雨の向こうに、白い服を着た人の姿が見えた。ちょうどが顔を向けている側にその人は立っている。視界に入ってくる、単一色にしか見えない土と家々の中で、その白はやけに目立っていた。


「誰?」


は訊ねたが、その声は掠れて小さかったせいと、雨音に紛れたことからその人には届かなかったかもしれなかった。


だね。私は仙人界の者なんだけど、きみは道士になるから一緒に来てもらうよ」


一歩一歩ゆっくりと近寄ると、その人はの傍らで屈んだ。そしての顔を見下ろす。その人も雨に濡れていた。


「…私の名前は雲中子。きみを助けてあげるよ」


雲中子は、の額に雨で濡れて張り付いている髪をはらった。頬を伝ったのは雨粒だったろうか、それとも涙だったろうか。雨はまだ止まない。











2006,11,11