思えば、その人はいつも、何かにつけて常に笑みを浮かべていた。目の前で人が血を流そうが、涙を流そうが、怒ろうが嘆こうが関係なかった。ただ皇帝である男の横に控え、それと言うのも誘惑の術のためではあるのだが、片時もそばを離れず微笑みを携えてそこにいた。 「ちゃんは変わっているわね」 そんな妲己にそう言われたときは、は少し驚いた。にこりと笑んだまま、その顔はに向いている。 「なぜですか?」 が訊ねると、妲己はくすくすと笑う。 「だって、ちゃんは崑崙の道士でしょう?なのにこんなところで私と一緒にいるんだものん」 「…それなら、申公豹だって同じじゃありませんか?彼も出は崑崙山です」 「まぁ確かにあの人も崑崙の出身ね。そしてどちらかといえばわらわ側の人間。でもちゃん程、わらわたちの身近にはいないわ」 笑みは崩さぬまま、妲己はを見つめた。も目を離さずに妲己を見つめ返す。 「ちゃんは、一体何を考えているのん?」 妲己の鋭い眼光が、の瞳をじっととらえた。妲己の目は、何があろうと逃がさないと言うような、突き刺さるような瞳だった。射抜かれたように、妲己から目を逸らさず見つめ返していたは、突然妲己を真似るかのように、ふと笑みを浮かべた。 「私は、何も考えていませんよ」 それからどれくらい経ってからだったろうか。朝歌に、崑崙山が発案したという封神計画の実行者の、太公望という道士が仲間と共に攻め入ってきた。反旗を翻した聞仲と、太子である殷洪も一緒だった。 「あれが、太公望ちゃんねん」 妲己は、太公望の姿を見ると楽しそうにそう呟きながら、喜媚と貴人と共に出ていった。それが、が直接聞いた、妲己の最後の言葉だった。「役割」を持つ者としての、妲己の最後の言葉。は城の中に残ったために、その後全てがどうなったのかは自分の目で見ていない。ただ、喜媚も貴人も次々に封神され、続いて紂王と殷洪も封神されたということを後になって聞いた。そして妲己も、聞仲との戦いによってその場で消滅したのだそうだ。「何故か魂魄は飛ばなかった」が。 「全て予定通りじゃ」 にそう連絡が入ってきたのは、全てが終わったらしく、外が静かになった直後だった。 「直ちに崑崙山に戻れ、」 通信機の向こうから原始天尊の伝えてきた事項を聞くと、は「分かりました」とだけ答え、通信を切った。通信機を通しての声は、妙に機械的で冷たい。通信が切れてすぐ、目の前に白鶴の乗る飛来椅が現れた。 「さん、お迎えに来ました」 そしてが戻ったとき、妲己は既に崑崙山に「戻って」いた。崑崙山内部の、奥まった広い部屋の中、何も知らない人間が入ったならば研究室か何かかと思うだろう。その部屋の奥に妲己は眠るようにして、以前が見たことがあるのと同じように、液体の浸された大きなガラス張りの円柱に入れられていた。 「奴等が来たようじゃ」 原始天尊はいち早く太公望たちの動向を察知した。太公望たちが人間界を離れ、この崑崙山に向かっているという。妲己の様子を見に来ていたは原始天尊に促されて、その部屋を後にした。 太公望たちからは見えない崑崙山の上の方から一部始終を眺めていたの足下が揺れ、大きな音が響き、どういうわけか妲己がその姿を現したのは、それから少し経ってのことだった。原始天尊が何かを仕掛けたのだろうかと思った。ただはそんな話は聞いていなかったし、原始天尊にしては往生際が悪すぎるような気もした。 「わらわは自由になった」 その顔に笑みをたたえた妲己はそう言った。原始天尊の「操り人形」で、自分の意志など持っていなかったはずの妲己は、原始天尊の見ている前で確かにそう言った。現に彼女は、原始天尊が命令などしていない行動をしていた。その器に持てるだけの力を与えられた妲己は、持つ力をありったけ使って太公望たちと戦っていた。自分の自由を喜ぶかのように。 笑う妲己と目が合ったような気がした。その顔は、の姿を捉えて一瞬驚きに歪んだが、すぐに何事もなかったかのように背を向けて飛んでいった。太公望たちがそれを追う。 申公豹の雷で身動きが取れなくなった妲己は、太公望によって倒された。彼女の最期など考えたこともなかったが、こんな最期を迎えるなんて思いもしなかった。 「、おまえに任務を言い渡す」 原始天尊から命を受けたその日から、常にその「人形」のそばにいた。いつも笑みを浮かべていたその人形の。もし、もっと違った形で出会っていたならば。 「妲己…」 妲己は、きらきらと光の粉のように砕けて、宙に消えていった。 「どうして、こんなことになったのかしら」 妲己の声が聞こえた。聞こえるはずなどないのに。あるいは幻聴だったのかもしれない。どうして彼女は「人形」でなければならなかったのだろう。今までに感じたこともない疑問がふと頭をよぎった。 さようなら、最後まで可哀相だった、たった一人の人形。 戻 2006,10,28 |