「落としましたよ」 木の上にそう声をかけると、ひょいと顔がのぞいた。 「おお、すまぬのう」 その人の顔からは想像できなかった口調に、は目を瞬かせる。その人は木の上から身軽に降りてくると、が拾った桃を受け取った。 「仙人さまはよくここにいらっしゃってますよね」 「わしはまだ道士だ」 「あ、そうなんですか」 ただの人間であるには、道士も仙人もそんなに違わないように思えたが、道士や仙人たち本人にとってはやはり違うものなのだろう。 「道士さまはここがお好きなんですか?」 「わしの名は太公望だ」 「はあ、太公望さま」 太公望だと名乗った道士は、が拾った桃を早速食べていた。桃の香りがふわりと漂ってくる。木の上から落ちて、よく潰れなかったものだ。 「わしのことを知っておるということは、おぬしはこの近くに住んでおるのか?」 「すぐそこの村に住んでいます」 太公望は、頷く代わりにまた桃をかじった。 「太公望さまは人間界がお好きなんですか」 「まあのう」 「あ、ようやく答えてくれた」 が笑うと、太公望は目を丸くしてを見つめた。 「さっきから一つも答えてくれないから」 言うと、太公望も笑みを浮かべた。変わった人だなとは思った。仙人や道士に会ったのは初めてだが、仙道には彼のように変わった人が多いのだろうか。初めて彼を見たのは数ヶ月前のことだった。毎日いるわけではなく、たまに見かける程度。だが彼以外に仙道を見たことはないので、仙道である彼が人間界にいるのは珍しいことなのだろうと思う。 「すぐそこの村ということは、西岐の者なのだな」 「ええ、そうです」 そして太公望はの返答に、なぜか「ふむ」と考えるように頷いた。 「おぬし、いまは幸せかのう?」 「は?」 「毎日平穏無事に暮らせておるかと聞いておるのだ」 「はあ…まぁ、毎日恙なく平和に暮らせてますよ、おかげさまで」 「そうか」 太公望は嬉しそうに笑った。は首を傾げる。 「さて、そろそろ帰るとするかのう」 桃はいつの間にか食べ終わっていた。 「そういえば、おぬし、名はなんと言う?」 ふとを見て、太公望は言った。言われてみれば、まだ名前を言ってなかった。言う機会もなかった。 「って言います」 「か」 笑みを浮かべたまま、太公望は頷いた。 「、これからも幸せに暮らすのだぞ」 「はあ、…ありがとうございます」 「ではのう」 太公望はくるりと踵を返すと、に背を向けて歩き出した。そういえば今日はあの大きな乗り物がない。どこか別の場所に置いているのだろうか。 「太公望さま」 呼び止めると、太公望はを振り返ってくれた。 「ええと…また会えますかね?」 「さあのう。おぬしは会いたいと思うのか?」 「まぁ…道士さまと会えるなんて貴重ですし」 太公望は笑った。 「なら、会えるかもしれんのう」 あの日から、その道士とは会っていない。季節は巡り、いつか国は殷から周へと変わった。あの日太公望は、木の上からそこにある風景を見るのと同じ目でを見ていた。おそらくあの人にとって、自分は世界の一つだったのだろうとは思った。 は今日も「平穏無事」に暮らしている。あの人も「幸せ」に暮らせているだろうか。が、投げかけるように思った問いは、風に乗って世界に溶けていった。 戻 2006,10,08 |