ふ、と目の前で黒い髪が揺れた。 「水を一杯下さいな」 顔を上げると女が一人、その顔に笑みをたたえて立っていた。どこにでもいそうな普通の服に身を包んでいる。 「……あいにくうちは水売り屋じゃないんで。川か井戸にでも行ってもらえます?」 「まー冷たいのね水屋さん、あれだけ自在に沢山の水を出しておいて」 レンズの向こうで、笑う女は腕を組んだ。見下ろす顔の横で、黒髪が風でふわりと揺れる。高友乾は大きく溜息をついた。 「……何しに来た?」 眼鏡を取ると、を目だけで見上げる。視線が交差すると、は嬉しそうににっこりと笑った。 「水を買いに……、っていうのは冗談でね」 高友乾の目つきが厳しくなったのに気づき、は宥める動作をしながら屈み込んだ。高友乾の視線の高さまで。 「…なんとなくかな?」 が言うと、高友乾は怪訝そうに表情を歪めた。 「なんとなくでこんなところまでくるやつだったか?おまえ」 「……さぁ」 は首を傾げる。 「分からないけど」 なんとなく。じっと高友乾の目を捉えたまま、は言う。「ふうん」と高友乾は短く相槌を打ち、もう一度、今度は小さく息をついた。 「王魔たちは?」 商売に使っていた道具を片付け始めた高友乾に、は訊ねる。 「…楊森は西岐の入り口辺りで怪しい薬草売り。王魔と興覇はなぜか花火師」 「そして高友乾は水屋さんね」 「…言っとくけど、水屋じゃなくて、水芸だから」 「水芸」 足下に転がってきた小さな竹筒を手に取る。 「お忍び楽しい?」 「……さぁ、楽しんでんのは楊森くらいだろ。あぁ、興覇も案外楽しんでるかもな、こういうの好きそうだし」 は後ろに、まばらながら人が通っていく気配を感じながら、なんとなく高友乾を見つめる。太陽は西の空に沈み、あとは夜の帳がおりるのを待つだけとなり、どんどん人の姿は少なくなっていく。 「……なに見てんの?」 「…なんとなく?」 膝の上で頬杖をついた格好でなおもは高友乾を見つめる。ふふ、と急には笑った。相変わらずよく分からない女だと高友乾は密かに思う。 風が吹いての黒髪が流れる。手を伸ばし、高友乾はその髪に触れた。 「どうしたの?」 は穏やかに問う。 「…なんとなく?」 言って、高友乾は口の端で笑った。「ふうん」とはにこにこしながら高友乾の顔を見つめている。 さらさらとの髪は高友乾の手を滑り落ちる。もう一度、高友乾は髪を掬う。すると、突然「あ」とは呟いた。 「思い出した、ここに来た理由」 「なに?」 「高友乾に会いたくなったの」 「…へえ」 「嬉しい?」 「……さぁ?」 ふ、と目の前で薄い色の髪が揺れる。同時に幻のように、僅かで微かな感触が頬を掠めた。 戻 2006,12,17 |